常滑美術研究所 とこなめびじゅつけんきゅうじょ

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鶴田 純久の章 お話

愛知県常滑市にあった彫塑研究所。
1883年(明治一六)8月もと皇居御造営事務局に奉職していた内藤鶴嶺を教師とし常滑粘土によって園芸用の兎・鹿または鶏などをつくり、次第に浮絵(薄肉)の額皿などをつくり輸出を試みた。
1885年(同一八)内藤が辞して去り、菊地鋳太郎が後任となったが二ヵ月で辞職。
寺内信一があとを継いで教師となり、従来窯業家中の有志の共同維持であったのを改め、清水守衛の単独経営に移しました。
翌年8月寺内が辞し研究所の名を停止しました。
しかし同9月常滑窯業家の団体である常産商会の経営でこれを再興。
1887年(同二〇)2月の海陸対抗演習に際し、天皇陛下御野立所御用の陶製品を調進するため、寺内はじめ浦川一斎・富本幸吉・磯村白斎・滝田椿渓らがこれに従事しとどこおりなく謹製を終えました。
演習後宮内省より再び研究所に手焙および鹿の庭園置物などの御下命があるようで、1888年5月製作を完結、同年末経費の関係で研究所の事業は閉鎖されました。
(寺内信一)

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