鍋島焼 なべしまやき

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鶴田 純久の章 お話

肥前佐賀藩鍋島侯が松浦郡大川内山(伊万里市大川内町)の御用窯で焼かせた精巧な磁器。
その製品は将軍家および諸侯への贈進品に当てられました。
鍋島侯の御用窯は初め有田の岩谷川内にあって多久家の家臣副田孫三郎の監督下で製作を続けていましたが、寛文(1661-73)初年に南川原に移窯され、次いで1675年(延宝三)になって大川内に移窯されました。
一般に鍋島焼という時、大川内焼をさす場合が多いようです。
従来鍋島侯の御用品は有田の酒井田柿右衛門・辻喜右衛門の両家に命じていましたが、なお新たに岩谷川内より南川原へ、さらに大川内に窯を移していっそう優秀な磁器をつくらせたのは、一つには藩侯が窯業に趣味をもっていたことによりますが、また酒井田家などが名人の死後次第に衰願して拙劣になったことに原因があります。
大川内開窯のため、酒井田家は多大の打撃を受け。
1723年(享保八)改めて御用命を願う嘆願書を出し、その結果藩侯の直接御用品中年々五千三十一個を大川内窯で焼き、他は柿右衛門その他の民窯に注文することを定めました。
このようにして鍋島焼は引き続き明治維新前までは御用窯でありましたが、その後ついに民窯となり会社組織に改められました。
大川内窯の陶工については伝えているものがないようです。
副田孫三郎の名が知られるが孫三郎は武士階級の監督者であって陶工ではなかりました。
しかしその製陶方法は中国の様式によるものであったことが推定されます。
つまり今日でいう大量生産主義を採っていて、各部門専門の陶工によって分業的に行われ各自は自己の最善を尽くすということでありました。
この方法は中国の精巧な磁器製造の過程に似ています。
したがって鍋島焼においては一枚の皿といえども多数の陶工の手を経たものであります。
製砧には染付・青磁もあるがその主なものは色絵物で、いわゆる世にいわれる色鍋島であります。
一般に染付の絵は非常に巧みに描かれ相当の画師の手になるものと思われます。
呉須の色は柿右衛門や伊万里に比べて華美でなく落ち着いています。
おそらく中国の呉須を混用したものであるでしょう。
青磁は古来わが国では鍋島青磁として尊ばれますが、中国の優秀なものとは比べものにならず、平戸青磁に比べても劣ります。
一般に色は浅薄で深味がなく下品であります。
鍋島焼の中で青磁は最も劣るものですが、ただその特徴といえることは染付と青磁とを一緒に取り扱ったものがあることで、この手法は他窯にはめフ美で早くから著名となり鍋島焼を代表する観があります。
「色鍋島」の項参照。
なお大川内窯の開窯年代および鍋島御用窯の変遷については異説があります。
(『甲子夜話』『青甕説』『工芸志料』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本陶磁器史論』『陶器類集』『日本近世窯業史』『鍋島』『柿右衛門と色鍋島』『鍋島焼』『日本陶磁器考』)

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