二代乾山と伝えられます。
初代尾形乾山に子がありませんでしたので、その死後伊八がこれを継いでします。
伊八は京都の名工野々村仁清の子で、家を出て画家立林何帛の養子となりました。
何帛は乾山と親交があり、そのため伊八を二代乾山としました。
伊八は江戸で武家に仕えて陶器を焼いていました。
因みに仁清は1666年(寛文六)に死んだといわれます。
それなら伊八の出生を仮に仁清の死んだ年だとしても、乾山が死んだ1743年(寛保三)にはすでに七十八歳であり、この老人が伝えられるように乾山の没する間際に何帛の養子となり、さらに乾山のあとを継ぐことなどは疑わしいです。
伊八はあるいは二、三代目の仁清の子でしょうか。
伊八の死んだ年は伝えられていないようです。
(『日本陶瓷史』)