分院窯 ぶんいんよう

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鶴田 純久の章 お話

朝鮮李朝の官窯。
ソウル(京城)から東南四〇キロの広州にあるようで、司饗院の官がここで磁器を監督製造させ御用に供しました。
『続大典』工典雑令中に「司饗院の煥造りする磁器は、一年に二次、春秋に進上す」とみえます。
司饗院では最初は官を諸道に派遣して磁器を督造させていましたが、間もなく広州磁器所一ヵ所のみに限ることになったため、広州の磁器所は司饗院の分院という意味で分院と呼ばれるようになったと思われます。
分院の工匠は三八〇名、一説に五五〇名余りといい、工匠は沙器匠と呼ばれ世襲制度でありました。
分院の名のみえるのは1866年(李太王の四年)の『六典条例』が最初で、公には煙造所と称しました。
また官文書には分厨院ともみえます。
その熔造所はもと牛川の川上、土幕洞付近にあったようで、釉薬・胎土は江原道楊口産のものを用い、のち運搬の便がいいので京畿道楊平郡南終面に移りました。
『六典条例』に「各様の沙器一千三百七十二竹、熔くに随って進上します。
(中略)内外の頒賜、及び堂郎の封余、各処の例送は、此の限りに在らず」とあるようで、一竹は磁器十個をいい、毎年分院でつくられる磁器の数量が多かったことがわかります。
分院の窯は割竹式登窯で成形は蹴轆轤によりました。
要するに分院は李朝染付の本場で、呉須の使い方も絵模様もよく、文様は小鳥・魚・牡丹などが多く、辰砂手はつくらなかったようであります。
彫刻的作品も多く文房具として筆立・水滴などいずれも変化に富んでいます。
大院君(1864-73)の頃より次第に衰え、その後日本の陶工を招いて近代化しましたが、今はすっかり衰えてしまりました。
(『李朝実録』『分院窯跡考』『朝鮮陶磁史文献考』『茶わん』四四)

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