三国焼 みくにやき

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鶴田 純久の章 お話

坂井焼ともいいます。
越前国阪井郡三国(福井県阪井郡三国町)の産。
1690年(元禄三)に出雲国(島根県)の人吉川六右衛門がこの地で土器を製造したのが起こりであります。
1711年(正徳元)6月にその子が業を継ぐと子六治郎を出雲に派遣し陶法を伝えさせ、1734年(享保一九)初め七施釉の陶器を製造しました。
1755年(宝暦五)五代目次三郎の時事業は衰微、1768年(明和五)札場嘉右衛門にこれを譲り渡しました。
嘉右衛門は京都に赴き釉法を得るなど大いに努力しました。
三代目半右衛門は名手で、雅味高尚な一種の海鼠釉を創出して世人の好評を得、販路も広まりました。
藩主がこれを嘉賞し札場焼の名を授け、親しく窯場を巡覧して大いに奨励しました。
四代半三郎になり九谷焼を模倣。
当時札場焼は全盛を極め磁工五十名、陶工三十名に達しました。
五代半次郎も製造に熱心で雲鶴青磁に類似の陶器を製作し、第二回勧業博覧会で受賞しますます盛業となりましたが、のち衰微に傾き1896年(明治二九)にはついに休業するに至りました。
横山藤助はこれを惜しみ1897年4月業を継ぎ、精巧な職工若干を雇用し半次郎をここの主任としました。
こうして事業は再び振るい1900-1年(同三三-四)当時は年間九千円の産額となり、各県へ移出するほかその漁用沈子などは遠くニコライェフスク地方へ輸出するまでになりました。
なおその製品についてある本によれば、三国焼は以前、藍・紫・青の色釉を掛けた交趾風のものまたは赤絵に金粉を加えたものなどでありましたが、札場嘉右衛門の時代以降は楽焼および京焼風のものを出したとあります。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『福井県物産誌』『日本陶甕史』)

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