昔、磁器は今日のように廉価でありませんでしたので、市中に焼接屋がありました。
また焼接ぎの御用はないかと呼んで往来した者も明治の中頃までありました。
中国でも焼接ぎがあり復焼といいます。
『陶説』に『博物要覧』を引いて「一種の復焼なるものあるようで、旧官班を取りて、炉の耳足を欠き、餅の口稜を損じたるが如きを、旧を以て加うるに釉薬を以てし。
一火もて焼成するに、旧製と二なるなし。
但だ補いし処の色は渾然として、此れを得て更に新しきものに勝ります。
愚謂うに、今の吹釉の法を用いて、旧き補処を補えば、述なからしむべし」とあります。
『嬉遊笑覧』によれば「わが国の焼つぎは京より始まり、寛政二年(1790)迄は江戸にて知らざりしことなり」といいます。
『塵塚談』に「陶器焼継之事、寛政二戌年迄は江戸に焼継といふ事はしらざりしなり、京都には其頃焼継有けるよし、近頃は江戸に焼継を産業とするもの夥しく出来しなり、この故に瀬戸物屋商ひ薄く成しといふ程なり」とあるようで、『親子草』には「瀬戸物焼継の事、当時所々に有レ之候瀬戸物やきつぎの元祖は、竹川町東側角に大和屋伝七といふもの、小さな見世にて寛政二戌年より相始り候処、半年も不レ立内に所々にて仕方を考へ、類見世夥敷出来致し候、元祖は当時何れへ離散致候哉相見不レ申候、元祖は大道を呼ありきは致不レ申候、且又世上に看板を書せ候事はやり候、元祖は浅草諏訪町西側に罷在、寛政元酉年の頃より、舟宿たばこや御料理御取肴御奈良茶などと、障子に紙も彼方より出し張候て、好之通書候て渡世といたし候、此看板書は当時は並木町東側に、見世は撞木商売いたし、自分は日々渡世に罷出、速与三兵衛伜与三次といって、至って能筆にて有レ之候、かれ手の風を似せ山の手辺などあるき申候、下町辺など書候手跡の不レ宜は、与三兵衛弟子御座候、江戸中端々迄大概此商売の類は、何れも此看板書に認させ候也」とあるようで、『飛烏川』に「近年流行物にて、瀬戸物焼継は重宝なり、古ぎせるなどと飴を取1るに、近年は取かへ茶わんあるく、好まぬ事か」、『守貞漫稿』には「昔は陶器の破損皆漆を以て修二補之一寛政中始て白玉粉を以て焼接ぐことをなす今世も貴価の陶器及び茶器の類は再竃に焼ことを好まず故に漆を以て補レ之金彩を貼す日用陶器の類は焼接を専とす蓋その粉三都相似たり唯所レ担瘤形僅に異なるのみ故ニー人を図して京阪と江戸とに兼るは筆労を省くのみ前箭は京阪後ろに荷は江戸の寵形也」などとみえます。