やきもの(焼物)
粘土または石類粉末の単味あるいは混合物で形をつくり、火熱を用いて焼成した器物をいいます。多く水その他の液体を浸透させないという目的、あるいは装飾のために、その表面に玻璃質の薄皮を施します。その本質を素地といい、薄皮を釉(うわぐすり・釉薬・汁)といいます。わが国の上代のやきものはすべて釉のない素焼であって名を甕・毘良迦・手抉・などといい、これを総称してすえものといいました。諸物を入れて据え置くという意でしょう。その後漢字の伝来と共に陶器という文字を使用しました。この語はもとは中国語で、陶とは窯の意で、陶器とは窯で焼いた器という意味で、やきもの一般を総称し、そのやや堅緻なものを瓷器といい、のちには磁器と書くようになりました。今日でなお中国では陶器はやきものの総称の意味で用いられています。わが国でも昔は陶器という語はやきものの総称とされ、現在においてもその意味に使用する例は少なくなく、陶器商・某々陶器会社などという類がこれです。ところが最近になって、陶器という語をやきものの一部の名称にのみ狭義に使用するようになりました。例えばやきものを類別して磁器・陶器・石器・土器とするなど。この類別のため陶器という語は広狭二義をもち、単に陶器といえばどちらの意味かと迷うようになりました。したがってこの点をはっきりさせるために、今日ではやきものの総称として陶磁器という言葉を用いるものが最も多くなりました。陶磁器には白色のもの、有色のものがあり、素地が粗く水を浸透させるものや、堅緻で浸透させないものがあります。
また釉を施したものと施さないものとがあり、いずれもフッ化水素酸のほかはほとんどいかなる化ばんど学薬品にも侵食され難く、また電気の不良導体です。その化学成分は、素地は主として珪酸およびより成り、その他に必要物あるいは不純物としてカリ・ソーダ・石灰・苦土・酸化鉄などを含んだり、あるいは骨灰質軟磁器のようにリン酸を含有するものもあります。釉は陶磁器の種類によりその化学成分を異にするとはいえ、いずれも珪酸化合物であり、これに硼酸化合物を混ぜているものもあります。しかし塩基にはカリ・ソーダ・石灰・礬土・酸化鉛の五種を最も普通とし、あるものはそのうち二、三を含有し、あるものはその全部を含有します。また特種な目的で重土・苦土・酸化亜鉛などを含有するものもあります。陶磁器の分類については「焼物の分類」の項参照。
【歴史概略】陶磁器の濫觴、すなわち極めて単純初歩のものは先史時代から各地でつくられていたことは、貝塚その他土中から発掘された遺物によって知ることができますが、その始原はもとより明確にすることができません。けれども人類が最初に湿った土が乾き形を成すことを知った時、火熱を用いることを知った人類はただちに土で形をつくってやきものとしたのでしょう。有史以後古代において製陶術が最も進歩したのはエジプトで、製作上陶車(轆轤)を使用したのもエジプトに始まったらしいです。テーベ時代のベニハッサンの墳墓の壁上に陶工がこれを使用する画図が発見されたのは、いかにその使用が古いかを示すものです。
釉の使用もまたエジプトが最古とされ紀元前にはすでに使用されていたらしいです。中国人もまた太古において製陶術が進歩した国民であり、神農が瓦器をつくり、黄帝の世に陶正という官職があって昆吾陶をつくったという伝説が残っています。わが国においても太古よりやきもののあったことはのちに記す通りです。このように製陶術はいずれの国民も太古より知っており、その製法において盛衰はありますが、民族自身の発明により、あるいは各民族間の伝習によって徐々に発達しました。古代において最も進歩したエジプトの陶法は、アッシリア人を経てペルシアに至って発達し、中古時代におけるムーア人のスペインおよびフランス南部の侵入占領によってその方法をヨーロッパに伝え、その後キリスト教徒のスペイン征服は同地の陶業廃絶させましたが、その系統を伝えたイタリア人は十五世紀に不透明白色の含錫釉を発明しました。いわゆるマジョリカ陶器であり、これを製出してヨーロッパの製陶界に一大革新を与え、十八世紀になイギリス人が硬質陶器を発明し、さらに製陶業を革新しました。陶磁器中最も進歩した磁器は中国人の発明によるものであり、その創始年代は漢代末らしいですが、唐になって発達し、良器を出したのは宋以後明代です。明の宣徳(1426~35)および成化(1465~87)年間はとりわけ著名で、隆慶・万暦(1567~1619)も盛んでした。西洋では十八世紀の初めサクソニアにおいて中国製品を模倣して初めてこれを製造し、これより各国に伝播しました。わが国における磁器の製造は文禄・慶長の朝鮮の役(1592~8)の賜物です。西洋における陶磁器生産国は、工業的方面よりすればドイツ・イギリス・チェコスロバキア、精巧品ではフランスを第一とし、イギリスは硬質陶器および骨灰質軟磁器で他をしのいでいます。アメリカは近代になって著しく生産額を増加しました。東洋ではわが国を第一とし、ドイツ・イギリスにまさる世界第一の輸出国です。中国は昔に比べると不振とはいえなお陶磁器生産国です。以下多く文献上からわが国のやきものの沿革大概を記します。
【上代】文献上よりみますと、記紀により太古よりすでにやきものがあったことが知られます。それらはすべて土の素焼です。素盞鳴尊が出雲国の川上に赴いた時に、土人が脚摩乳・毛摩乳・甕をつくり酒を醸造したとあり、また高皇産霊尊・櫛八玉神に命じて出雲国多芸志の小浜で毗良迦をつくり、珍味を盛って天照大神に供したことがあります。ただしこの毗良迦は海中の埴で製したものです。また海神豊玉比売が井の水を汲むのに玉椀を用いたことがあります。当時は普通やきものの腕を用いていましたので、特に玉でつくったものは玉椀といいました。神武天皇即位前三年、天皇が大和の賊を討賊しようとされました。その時椎根津彦に天香山の埴で平手抉瓮をつくらせて神祇を祭らせ翌年賊を平定しました。その埴を取った所を埴安といいます。埴安とは埴を柔らげるという意味です。神に供える瓮を伊豆閇といいます。後世の伊波比閇です。これより先に和泉国大島郡に工人がいました。よく陶器をつくったのでその地を陶ノといい、これは後世の陶器荘です。垂仁天皇の三年、近江国鏡谷の工人は新羅の帰化人の子孫で新羅様の陶器をよくつくりました。同三十二年皇后日葉酢媛命が死去し、葬るに当たって野見宿禰の議を用い墓陵たままり陶製の人や馬などをつくって立てました。そしてこはにわれを立て物または埴輪といいました。この時初めて土部職を置き、陶器を製する地を定め、野見宿禰を長官とし土師姓を賜わった。その後子孫の土師は工人を監督して朝廷に仕えました。景行天皇の時、肥前国佐嘉に神がいて、山中にいて往来の人を暴殺するのでその国の県主大荒田はこれを悩んでいました。
その時土人大山田女・狭山田女の二女がいて、下田村の土を取って人像・馬像をつくってこれを祭れば、神意は必ず穏和となるであろうといいました。
大荒田はその言葉に従って神を祭ったところ、神もその祭をけてついに応和しました。わが国で陶製の人馬を神に祭ることはこの時から始まりました。允恭天皇の四年、探湯瓮を用いて臣下諸姓の貴卑を正しました。雄略天皇の七年、天皇は盛んに陶器をつくる業を起こそうとされ、西漢才伎歓因知利の議を用い百済の陶工高貴を招き河内国桃原に住まわせました。その後百済の陶法がわが国に伝播し諸国の陶業も次第に起こってきました。同十七年天皇が土師吾らに詔して朝夕の御膳に供すべき清器をつくらせて献じさせました。顕宗天皇の時に初めて盤が見られます。降って645年(大化元)には宮司を置いて土師の工人を管理しました。伝えによれば当時肥前国で陶器をよく製造したことが唐津焼の濫觴であるといわれます。701年(大宝元)には陶器を製造する工人の戸を制定。703年(同三)諸国に疾疫があり初めて土牛の大儺をつくりました。
なお考古学的研究については「縄文式土器」「弥生式土器」「須恵器」「土師器」の各項を参照。
【奈良時代】称徳天皇が東院の玉殿を建築されたやわん時、瑠璃瓦葺き藻績の紋を描きました。その瑠璃瓦は釉を施したもので、陶器に彩釉を施することがこの頃より盛んになりはじめたものでしょう。
【平安時代】794年(延暦一三)遷都の時、碧瓦(瓦に碧釉を施したもの)をつくり大極殿の屋根を葺きました。当時中国の商人が陶器をもたらしましたが、茶を盛るものが多かったことから、時の人は中国舶来の陶器を知也和光といい、茶を盛るのでないものをもまたちゃわんといいました。808年(大同三)陶司を大膳職に合し、その後陶器は大膳職で製造しました。815年(弘仁六)造瓷器生尾張山田郡の人三家人部乙麿らが伝習成業し雑生に準じ出仕しました。奈良・平安時代は青瓷を秘色と称して最も珍重しました。村上天皇は供御の御膳に秘色の酒瓶を用いられました。905年(延喜五)制し陶器調貢の国を大和・河内・摂津・和泉・近江・美濃・播磨・備前・讃岐の十国となし、尾張・長門の二国には年料供御用に瓷器を当てさせました。
承平天慶の乱後、製陶業が次第に衰え、工人がわずかにその法を遵守したにすぎなかったことから、陶器を奉るべき国々もかえって他物をするようになっていきました。
【鎌倉時代】承久の乱以来諸国の工人が陶器を製造することは非常に少なかったです。後堀河天皇の時加藤四郎左衛門景正という者がおり、かつて入宋して陶法を伝習し尾張国春日井郡瀬戸村(愛知県瀬戸市)に窯を開き、宋法によって茶壺類を製造茶褐色の釉を施し、その上に斑に黒釉を施しました。世に藤四郎といい、その作を古瀬戸と称します。これより装飾を加えた美術的作品を出すようになりました。以来陶製が発達し、後宇多天皇の時信楽焼、御醍醐天皇の時伊賀焼などが盛んとなりました。ただしこれらの創始はその以前です。
【室町時代】初期にはほとんど中国・朝鮮・南方諸島よりの輸入品を愛玩しましたが、点茶や香道が盛んになるにしたがって各地に陶工が出て製作するようになりました。瀬戸焼は天目釉などを完成し一層多種類の製器を出しました。そのほか備前焼(伊部焼、その創始は古いといいますが、当代の末より花瓶や茶器類をつくり、古備前といわれます)・唐津焼(根抜というのは建武より文明年間、1334~1487年に、奥高麗というのは文明より天正年間、1469~1592年にいずれも製造したものという)などがあります。
【桃山時代】豊臣秀吉が茶道を好み古器を愛玩し時代であり、千利休・細川幽斎・古田織部らの茶人が各々その好むところの陶器をつくらせました。
京都では田中長次郎が楽焼を出し、また正意・万右衛門・源十郎・宗伯が続き、備前では三日月六兵衛らが各々の創意の茶器を製造しました。また文禄・慶長の役に従軍の諸侯が、帰降者で陶磁をつくれる連中を連れて帰り、各々領地において陶窯を開かせ、薩摩国(鹿児島県)の帖佐焼、筑前国(福岡県)の高取焼、肥後国(熊本県)の八代焼、長門国(山口県)の萩焼、肥前国(佐賀・長崎県)・豊前国(福岡・大分県)その他各地に陶業が起こりました。特に佐賀鍋島侯に従って来た李氏(金ヶ江三兵衛)は元和寛永(1615~44)頃有田泉山に磁料を発見し、わが国最初の磁器を創製しました。古田織部の創意による織部焼もまたこの時代さらはこすえもののつかさひそくに現われました。
【江戸時代】桃山時代においてその起原を開き、当代に入って最も盛大となり、京都に野々村仁清が出て一新機軸を開き、肥前に酒井田柿右衛門が出て初めて磁器彩画の法を開き、正保年間(1644~8)中国に輸出し、わが国陶磁の海外進出の嚆矢を成しました。有名な者には薩摩の朴平意、筑前高取の五十嵐次郎左衛門らがいます。数寄者の余技として現われたものに本阿弥光悦がいます。また伏見奉行小堀遠江守政一は茶道に詳しく、伊賀・信楽・志戸呂・膳所・上野・高取・朝日・古曾部赤膚などの諸窯に自分の意匠を授けてその改良進歩に努めました。諸藩も陶窯を保護し、藩窯とし特に著名なものに、島津の竪野窯、黒田の高取窯、鍋島の大川内窯、尾張徳川の御深井窯、藤堂の丸柱窯、松浦の三川内窯、紀州徳川の偕楽園窯、井伊の湖東窯などがあります。また伊部・唐津・丹波・粟田・萩・瀬戸いずれも奇品を出し、そのほか加賀九谷・清水・有田・尾戸・淡路・砥部・会津・三田・相馬・今戸・万古・美濃・笠間・益子・明石・布志名・楽山・越中瀬戸などのほとんどの諸窯はこの時代に起こりました。また京都を中心とし各地にいて名工の名をほしいままにしたものも少なくありません。
【明治維新後】時代の変遷にあって茶器に用いられたものはほとんど衰運に向かいましたが、食器類を製造した有田・瀬戸・九谷などは内地の需要に供するのみならず海外へ輸出してますます盛運に向かいました。維新後率先して西洋の窯法を輸入したの有田であり、一時香蘭社・精磁会社の製品が外国人に賞されました。維新後長足の進歩をとげて著しく産額を増加したのは美濃焼・砥部焼・会津焼であり、美濃焼などは維新前までは名古屋藩の蔵元の中に入り瀬戸物となって他県へ移出されていたのでその名さえ聞きませんでしたが、以後わが国全産額中三分の一を占める程の陶業地となりました。ま砥部・会津などは陶業地としては高名でありませんでしたが、維新後にわかに発達し海外へ輸出されるものも少なくありませんでした。東京も維新後になって磁器の名工が輩出して美術品をつくる者が出てきました。
京都は前期より五条坂・粟田に多くの陶工がいて美術品をつくりましたが、今なお輸出品のほか京都固有の美術品はその業を世襲する者らによって精巧品を出し、旧套を守って品格を落としていません。
近年の発達は外国の需要に刺激されて工場化の可能性を与えられたものですから、今日国内需要も旺盛ですが、なお輸出に俟つところが多いです。