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鶴田 純久の章 お話

陶磁器成形用の旋盤。
盤上に坏土を置きこれを旋回させ、その旋回を利用し坏土を引き上げて器物を成形します。
「名義」わが国においては、轆轤は陶磁器成形用のほかに、釣瓶井戸の上部に懸ける車輪、木地細工用の轆轤鈎、車地(万力)、傘の具である傘椿などを等しく轆轤と呼びます。
中国においては汲水器(釣瓶井戸の車輪)および絞盤(車地)のみを轆轤と呼び、陶磁器成形用の轆轤は均・鈎・陶車・輪車・輪子などと称し、なお泥輪・規車・運鈎・旋盤・旋林・陶鈎などの文字を当てます。
朝鮮語は轆轤をムルニと呼び、漢字で輪台(リュンテ)の字を当てます。
【構造および種類】轆轤は成形用の円盤とこれを支える釉木とからなり、釉木の下端は地中に埋めて固定します。
釉木の頂部に水平に安定している円盤は、手または足、あるいは動力によって旋回運動を起こします。
釉木と円盤の接触点には磨滅を防ぐため陶磁器や鋼鉄製の頂を嵌入し、円盤の表面はおおむね陶工が坐って作業する床と同じ高さにあります。
主として木製または金属製でありますが、他に土製・石製・石膏製・陶磁製のものもあります。
木製は最も通用されらところでわが国・朝鮮ともに棒材が多く用いられます。
土製としては中国徳化窯のものなどもそのI種とみられますし、またラウフ″1が1903年北京郊外の窯場で得たものは、円盤の形態が帽子のようで粘土に豚毛と藁とを混ぜて乾固したものであります。
石製は中国やインドなどにその例があるようで、ラウファ一が得た中国山西省製のものは重い石の円盤で上に円板を載せていました。
陶磁器製のものは絵付の圏線を描くのに用いる小轆轤にその例があります。
轆轤はその運転形式により三種類に分けます。
手動式の手轆轤、足動式の蹴轆轤、動力式の機械轆轤。
手轆轤は成形用の円盤の周囲に数個の孔を穿ちこれに回し棒を挿入して旋回させる。
蹴轆轤は手轆轤の単盤式と異なり複盤式で、下盤を蹴り動かして上盤で成形する(ただし単盤式で足で蹴るものもある)。
機械轆轤は動力で旋回させ成形用の型板(鏝)を具えています。
原始土器製作時代の回転工夫は、浅い篭あるいは瓢の一部、または円形の石であって、この工夫を轆轤を案出するに至る第一歩とする説があるけれどもそれは正しくないようです。
陶業における原始的手づくりとその後の轆轤づくりとの二手法は、根底より相違する二個の火間活動の表現であります。
轆轤は従来婦人の手にあった陶業がのち男子の手で経営される際、一つの新しい事件として局外より出現したものであって、実に轆轤の工夫は車輪に発するのであります。
今日なおタミル民族で行なわれている轆轤は原始的車輪状のもので、その構造は細長い柔靭な木条または竹を束ねて径1m余りの輪とし、粘土に山羊の毛またはこれに類するものを交じえて厚く輪を塗る。
四本の車幅と中央器物を載せるところは木でつきます。
心棒は堅い木または石を据えます。
輪にはI、二ヵ所少し凹んだところがあって、これに把手を入れて旋回するようにつきます。
旋回するにはまず手でやり、次にその輪の凹部に長い竹片を挿入して迅速な旋回運動を起こさせるのであります。
アッサム地方の陶窯にもこれとほとんど同じものがあります。
たぶん琥組が手づくりにおける道具より発達したものでなくして、別に車輪より着想したものであることは、中国およびインドなどで、轆轤の発達後においても手づくり工と継植工はまったく別個のものとして並立していることに徴しても知られ、またヒンズー教の経典、あるいは中国の輪車などの文字をみてもそのことがわかるであるでしょう。
次に世界における轆轤の源流はおおむね二個の中心より次第に伝播したようであります。
一つはまずエジプト(紀元前二千年あるいはそれ以前)に現れ、これを中心として次第にヨーロッパ南部に伝播し、さらに前後にヨーロッパ中部、並びに北部に及んだものです。
他の一つは中国より起こり朝鮮およびわが国にきて安南・ビルマに至ったものであります。
そしてインドは他の焦点とみることができ、それよりスマトラー八ワイに広まったようであります。
しかしこのように轆轤の伝播系統は相互にまったく無関係で多元的のものとは断定しにくく、各国における轆轤の構造と操作の相似性をみれば、むしろ轆轤の工夫の伝播は一元的なものとみるべきであるでしょう。
【中国】中国において陶磁器成形用の轆轤は均・輪車や陶車などの文字を当てることは既述の通りでありますが、その源流は詳かでないとしても、『周礼』に、均には拉車(手轆轤)と旋車(蹴轆轤)の別があったことを記し、また『考工記』中に当時の土工は陶人(轆轤を用いて日用品をつくる)と施入(篭の方法によって祭器をつくる)に分かれていたことを記しています。
また『陶説』陶冶図説円器拉坏の条に「車は木盤の如く下に機釉を設け旋転せしめて滞るなし、則ち拉く所の坏厚薄偏側の患なし、故に木作をして随時整治す、叉泥作あり泥を博ちて融結し車盤に置く、坏を拉く者は車架に坐し竹杖を以て車を撥し輪を走らす、双手泥を按じ其の手法の屈伸収放に随ひ以て円器の款式を定む」とあります。
『清国窯業視察報告』によって近代の制式を窺うと、景徳鎮における陶車は手動式で概してわが国の手轆轤に似ており、円盤はたいてい直径96cmより1.3mに至り、厚さは6cm前後とします。
円盤と釉木との接触部分には陶製の釉受けがあります。
また釉木を囲んで四本の木粁があるようで、木粁の下端に陶製の輪環を付す。
釉木の頂端は堅木でっくり減損すれば取り換えます。
陶工は腰板に躍坐し両足を前方に開き、両手で回棒を持ち円盤上に穿たれた孔にこれを挿入し円盤を旋回させる。
回棒には竹製・木製があるようで、長さ1m内外とします。
ただし大器をつくる場合は補助工に円盤を旋回させ、器物によっては補助工三人を要することがあります。
福建省徳化窯の陶車は脚車で、その制式は景徳鎮および石湾窯のものと異なり、またわが国におけるものとも異なります。
すなわち木製円筒脚があって釉木の上に載っています。
円筒脚の上端平面に九本の代を直角に打ち込みこれに竹片を組み付けて円坐をつくり、これを骨として上に泥土を塗布して成形用円盤をつきます。
円盤の直径はたいてい54cmより60cmを普通とします。
そしてこれを旋回させるには、陶工は陶車前に鋸坐し右足を上げて円盤の縁辺を蹴り回すものとします。
また遅緩な回転を要する時はこれを手で行なうことがあるようで、そのため円盤の縁端に小盃を埋め込み手掛かりとします。
広東省石湾窯の陶車は円盤の直径約75cm、地孔に装置した釉木の上に載る円盤の高さは、地上よりほぼ15cmのところにあります。
陶車の使用は必ず造坏工と補助工の二人でし、補助工は陶車のかたわらに立ち、屋裏より懸垂した吊縄を手にして身体を固定させ、足を上げて円盤の上部を蹴り動かし、造坏工は陶車に対して鋸坐し、その両足を左右に開いて器物を成形します。
徳化窯の式と共にその構造はわが国の手轆轤に似ていますが、操作は蹴轆轤に似たものであります。
【朝鮮】朝鮮の轆轤(ムルニ)は輪台(リュンテ)の字を当て、材は多く樺製、釉木のみは檀木を使用します。
全部蹴轆轤で、その複盤式はわが国九州地方の蹴轆轤に非常に類似します。
上盤の径約48cm、厚さ9cmばかり。
下盤はその中央に釉木を通す円孔を有します。
上下両盤は四本の木粁によって連結され、釉木は上盤を受け下盤の円孔を通り下端は地中に固定されます。
陶車全体は直径90cm内外に掘られた穴に装置され、上盤はあたかも地上平面と平均します。
工人はかたわらに掘った穴に木板を架し、これに腰掛け下盤を蹴りつつ器物を成形します。
【日本】わが国における轆轤の源流もまた詳かでないようです。
正倉院文書の『造仏所作物帳』に「近江の輸値工」とあるのをみれば天平時代に轆轤か行われていたことは確実であります。
わが国においては単盤式の手轆轤と複盤式の蹴轆轤が並用され、各陶業地の伝統に従い両者は相対立の勢力を示しています。
手轆轤の行われる地方は尾張(愛知県)・美濃(岐阜県)・磐城(福島県)・京都などを主とし、また瀬戸琥組ともいいます。
構造は大体成形用円盤とその円盤の裏面中央に中空の円筒を取り付け、中に釉木を挿入して円盤を支持し、円盤と釉木との接触点には陶磁製や鉄製の頂を嵌入して磨滅を避けます。
釉木の下端は地中に固定します。
円盤には回し棒を挿入するため小孔を穿ちます。
寸法は地方によりやや異同がありますが、大体円盤の径54cmより66cm、厚さ75cmより90cm、円筒の外径14.5cm、円筒の長さ42cmばかりとします。
蹴轆轤の行われる地方は九州・但馬(兵庫県)・出雲(島根県)・長門(山口県)・伊予(愛媛県)・加賀(石川県)などを主とします。
上下両盤より成り、両盤は通常四本の木杵によって連結します。
釉木は下盤の中央の孔を通って上盤を受け、その下端は地中に固定します。
すなわち下盤を足で蹴り回し上盤で成形することは朝鮮式に同じ。
寸法は地方によって小異があるようで、普通は上盤直径30cm、下盤直径40cmより54cm、両盤を連絡する木粁の長さ約30cmとします。
ただし薩摩の大車と称するものは上盤の直径93cm、総高63cmに及びます。
『陶器指南』に石焼轆轤の図を出し、説明に「叉ケリロクロトモ云、鏡亘り八寸、高サー尺八寸、中間ヲ図ノ如縄ニテ巻ナリ、但シ足ニテロクロヲケリ鏡ノ上ニテ小盃ヨリニ尺余三尺迄ノ器ヲ作ル、心木ノカX`気ニアタルトコロヲカシモウト云、ヤキモノニテシンギノウケヲツクルナリ」とあります。
また加賀では古く手轆轤を土方轆轤と呼び、蹴轆轤を石方轆轤と呼んでいました。
わが国の轆轤は元来は中国式の手轆轤でありましたが、のち朝鮮の磁法が九州地方へ伝播した際蹴轆轤の法も共に伝わり、さらに九州の磁法と共に国内に伝播したのであるだろうかと思われます。
ただし瀬戸などは文化年間(1804-18)に九州の磁法と共に蹴轆轤の法も伝わっていましたが、手轆轤の伝統が強くついに蹴轆轤は普及せずに終わりました。
京都・会津なども同例であります。
そして九州地方では蹴轆轤は轆轤という呼称を用いないで「車」と呼び、手轆轤は絵付の圏線付にのみ用い、これまた「すじ車」と呼びます。
肥前では車御運上・車細工人・車坪・車開きなどの呼称があります。
轆轤はおおむね京都以東の称呼でありますが、信楽のようにまた車の呼称を用いる所もあるようです。
たいてい木製でその材は多く棒でありますが、上製には槐製のものもあります。
また釉木にはイスの木、木粁には樫などが賞用されます。
ただし最近では釉木に鋼鉄を用いる場合が多いようです。
また絵付用の小轆轤は金属製のものが多いが瀬戸地方では陶磁製のものも用いられます。
近代的工場制生産の下にあっては次第に手轆轤・蹴轆轤による成形法はすたれ、機械轆轤その他による成形法がもっぱら行われます。
なお轆轤づくりの茶入に「糸切」と称する注目点があります。
糸切は成形後轆轤の回転の余勢を利用して藁みごその他で器物を切り離す際底面に生じる痕跡であって、右廻り・左廻りの別が鑑定の手掛かりとなり、右廻り(本糸切)は瀬戸茶入で、左廻り(唐物糸切)は唐物茶入の風であるとなします。
しかしこのような区別は本質的なものではない(「糸切」の項参照)。
さらに成形の際器物に周回して現れる条痕を轆轤目といい、これまた一種の注目点となることがあります。
また轆轤による成形を瀬戸ではヌタ挽きといい、京都では水挽きといいます。
(『周礼』『陶説』『名物六帖』『陶器指南』『轆轤起原考』『北村弥一郎窯業全集』『朝鮮陶磁名考』『図解薩摩焼』)

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