京都の陶家清水六兵衛。
初代六兵衛は愚斎と号し、幼名栗太郎、摂津国島上郡東五百住村(大阪府高槻市東五百住町)古藤六左衛門の子。
早くから陶業に志し寛延年間(1748-50)京都に出て、五条坂(東山区)の陶工海老清に入門して教えを受け、明和年間(1764-71)五条において創業し清水六兵衛と改名。
製品はもっぱら土焼の抹茶器・置物・文房具の類でありました。
かつて妙法院の求めに応じ黒楽の茶碗を同宮御庭でっくり上覧に供し、賞詞をこうむり御手製六目の印を拝領しました。
以降製作する黒楽茶碗にこの印を捺しました。
このほかに用いた印章のうち六角内に清字の印大小二種類は天竜寺僧桂州和尚の手書きであります。
また「きよ水」の印は先師清兵衛より受けたものといいます。
円山応挙・呉春らと交遊し親睦していたことから両名揮毫の画器が多いと伝えられます。
また六兵衛は信楽でも陶業を習っていて、六の字があるものの内に信楽出来のものがあるようで、土質に詳しく信楽の土が最もよいので常用したともいわれています。
一燈宗室よりも印を授けられましたが、大仏御殿拝領の印は大仏印といいます。
また清不とある款は中国饒州で素焼にする土を白不というのに倣って清水土を清不と書いたのであります。
1799年(寛政一一)没、六十二歳。
嗣子幼少のため数年休業。
二代六兵衛は静斎と号しました。
愚斎の子。
1811年(文化八)に創業し、和漢の諸陶器を模造して茶器・鉢類・赤絵物などことごとく雅品を焼出。
晩年に至り青花磁の酒茶器を製出し、初代の印に外郭一重を増した印を用いました。
1860年(万延元)3月没、七十一歳。
三代六兵衛は号を祥雲、静斎の子。
1838年(天保九)に創業し、和漢の諸陶器を模造し、青花磁」色絵・赤絵・青磁その他種々の器物を製出し、1853年(嘉永六)禁裏御所御付大久保大隅守・長谷川肥前守の両名の求めに応じ、土焼火灯篭一基を製出し、今なお禁中に存しているといわれます。
製品に捺した印章は六角の中に清の字並びに六兵衛の文字があるようで、これらは大徳寺大綱和尚より授けられました。
1883年(明治一六)6月没、六十二歳。
四代六兵衛は祥麟と号しました。
父祖の業を継ぎ和漢の諸陶磁器を模造し、青花磁・色絵・赤絵・青磁その他種々の品を製作しました。
印章は大徳寺牧宗和尚の手書きで、六角内の清の字大中小三個並びに清六・六居などの印を用いました。
1913年(大正二)隠居し、1920年(同九)没、七十三歳。
五代六兵衛は六和と号しました。
四代の長男。
創作工芸の発達の為に努力し、1945年(昭和二〇)家督を譲りました。
1959年(同三四)没、八十五歳。
現代六兵衛が六代を襲います。
(『陶器考付録』『観古図説』『工芸鏡』『写本日本陶工伝』『大成陶誌』『陶器類集』『彩壺会講演録』『日本陶甕史』『日本窯業大観』)