江戸絵付 えどえつけ

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鶴田 純久の章 お話

のちに東京絵付といきました。
白地を産地から取り寄せ江戸で上絵付したものです。
創始年次は明らかでありませんが、尾張・美濃(愛知・岐阜県)地方で磁器が製された以後ではないでしょうか。
明治維新前後になって薩摩焼の素地を用い、もっぱら輸出品を製して薩摩絵付と称しました。
初めは磁製の盃・猪口・爛徳利・小皿・小鉢・急須・煎茶器・湯飲みなどに江戸名所あるいは花烏・美人画などを焼き付け、主に各藩士の参勤交代の土産品として買われました。
この上絵を焼く窯は、大きいものでもようやく内窯の径三〇センチ、高さ三〇センチ程度で、小さいものは径・高さとも一五センチにすぎませんでした。
外窯との間隔ほ周囲に四・五センチ程あって、この余地に松炭を入れて一時間程焼きます。
これを改良し薪材で錦窯を焚いたのは、安政年間(1854-60)本郷(文京区)に居た加賀の人藤村与兵衛でありました。
これから花瓶・香炉・大皿なども随意に絵付できるようになりました。
なお安政年間には九段上(千代田区)の番町御薬園内に少数の陶画工を置き、尾張・美濃産の白地を用い幕府用の遊戯品を焼成したといいます。
江戸時代にはこの陶画工を猪口絵師と通称しましたが、嘉永(1848-54)頃から明治にわたって法橋松月が最も有名でありました。
明治維新前後から薩摩産の白地を用いもっぱら海外輸出品をつくる者が増加し、その絵付は原産地のもののように金線を盛り上げにして、顔料も和製に止まっていたがのちには舶来品も用いました。
画様は初め花鳥を主としたか、人物画や時には楼閣山水などをも描いました。
そして素地は薩摩だけでなく粟田・瀬戸薩摩をも用い、のちにはさらに東京で素地を焼くようになりました。
すなわち竹本要斎・成瀬誠志らであり、成瀬は最も細密な陶画を得意としました。
ほかに有名な画工に不破素堂・木村立嶽らがいます。
なおこれらの最優秀品を取り扱ったのは起立工商会社であります。
のちに薩摩素地が粗悪となったため栗田素地がこれに代わったか、次第に画様の新鮮さに欠け衰えてしまいました。
(『日本近世窯業史』)

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