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鶴田 純久の章 お話

陶磁器用絵具を製陶技術の発達過程においてみますと、初め素焼き程度の器物に黒・白・赤などの顔料で塗抹描画したことが彩色土器にみられますが、これを陶磁器用絵具として特論する必要はないでしょう。
今日陶磁器用絵具の概念は、釉下強火性絵具と釉上弱火性絵具の二種に大別されます。
もちろん低温度の時にだけ安定する釉下弱火性絵具、釉の熔融点または熔融温度近くで初めて絵付効果を生む釉上強火性絵具とも名付けられるものもありますが、これらはいずれも先の二種中の一つに含まれるもので、その応用実益の範囲は狭く異例に属します。
「釉下強火性絵具」陶磁器用絵具の使用は製陶技術の進歩を示すもので、最初はどれも釉下絵具で始まりました。
すなわち中国では宋代に始まり、朝鮮では李朝期のものに端を発しました。
わが国では室町時代末期に起こり、酸化鉄で黒褐色を示すことなど志野焼におけるようなものでありますが、江戸時代初期に中国呉須が伝わって青色も使われるようになりました。
そして有田の李参平が白磁を完成してからは、呉須の発色が最も鮮麗になったので青花の名で盛んに行われ、白磁の製法と共ぼ九谷・瀬戸に伝わりました。
その後瀬戸だけはその地に呉須を産したのでこれを砂絵薬と称してもっぱらこれを用いましたが、有田その他では江戸時代末期までずっと中国呉須を輸入していました。
1867年(慶応三)になって瑞穂屋卯三郎がフランスから釉上絵具と共に酸化コバルトを購入して帰り、服部杏圃はその法を受けましたが、のち1869年(明治二)この二人は有田に招かれてこれを伝えました。
次いで翌年ワグネルもまた有田に招聘されて有田の陶業を啓発するに当たって、酸化コバルトに中樽山地上を混ぜて素地着画の良好化を図りました。
それより以前には素地面上に白絵土の薄泥を塗布して呉須が散るのを防いでいました。
有田のこの酸化コバルトの使用方法は間もなく京都・瀬戸に伝わり、1885、六年(明治一八、九)頃からは中国呉須や砂絵は廃れドイツから酸化コバルトがしきりに輸入され、またクロムによる緑色、ウラ二ウムによる薄墨色が使われてそれらが輸入されました。
その後1887年(同二〇)前後にワグネルや植田豊橘が創製した彩画美麗な旭焼は、碩砂・珪酸・亜鉛・石灰および少量の鉛を釉としましたが、この釉下での絵具の発色は鳶色・黒色の場合にだけ良好で、黄色・撫脂・緑色の場合には不良でしたので、亜鉛を減らし鉛を増して発色の良果を得、またこの時に起こる釉の流動性防止にはマグネシウムを添加し、絵具が素地に密着せず釉と共に剥離し、そのため熔剤を増せば変色してしまうという難点を解決して、ついに所期の目的を達したと伝えられます。
このような釉と絵具との相関関係の研究は、のちに絵具の製造上極めて貴重な資料となりました。
なおこの頃美濃地方で海碧色の絵具が流行して山米絵具店のものが大いに使われましたが、これより以前に東京の竹本隼太は緑色絵具で巨利を得たといわれます。
1893、四年(同二六、七)頃、飛烏井孝太郎は美濃国恵那郡高山(岐阜県中津川市)の採鉱社で得た砿石(フェルグソン石)が磁器釉下絵具に用いると黄色を出すことを発見し、その試験にかかわった寺内信一はこれを飛烏井黄と名付けました。
おそらく磁器釉下絵具の黄色は世界的発見であったからであります。
次いで1899年(同三二)春、加藤友太郎は美術協会展覧会に旭日鳴烏の図の磁製花瓶を出品しましたが、その鮮麗な釉下赤色は先人未発のものであったので陶寿紅または友太郎赤の名で喧伝されました。
ただしその詳細については秘密にして伝えなかったのでわかっていないようです。
またこの頃清風与平は金で淡紅色を出したといわれます。
明治前期から行われた酸化コバルトは、中国呉須かSK12以上の高温で槌色する傾向かあるのに対し、安定で鮮明かつ廉価であるので大いに使用されたか、その後中国呉須の組成に倣って、酸化コバルト・酸化鉄・酸化マンガン・酸化二ッケルを混和して灼熱したのち細磨した人造呉須か使われることになりました。
しかし大正期に入り人造呉須の鮮明を否定して中国呉須の潤色を喜ぶ傾向か生じました。
「釉上弱火性絵具」釉上絵具は釉下絵具より発達の遅れるのが常で、中国では宋代に赤絵が起こり明末清初に最盛期を示しましたが、朝鮮での発達はみられないようです。
わが国では釉下絵具呉須が江戸時代初期に使われてからしばらくして、有田の酒井田柿右衛門が中国の金銀五彩の法を伝え聞いて釉上絵具の赤色その他を創製し、わが国で釉上絵具を使って彩画する端緒をなしました。
その主な色彩か赤色であったので赤絵の名で呼ばれ、京都・九谷に伝わって京都に仁清などの名手が出ました。
その後この五彩の法は、釉下絵具呉須でしたものを染め付けと呼ぶのに対し、錦手または金欄手の名で広く各陶業地に流布し、江戸時代を通じて欧米へ輸出された陶磁器はこの釉上絵具で彩画した上絵付物の類だけで、釉下絵具で描いた染付物の類にまでは及びませんでした。
1867年(慶応三)瑞穂屋卯三郎がフランスから釉上絵具をもたらして以来この種の絵具は次第に輸入されましたが、1874年(明治七)丹山陸郎が初めてオ一ストリアかG伝えた水金も1884、五年(同一七、八)頃から輸入され、金銀五彩の華麗な金欄手陶磁器の海外輸ぼが旺盛となるに伴って、粟田焼では当時一ヵ年の水金使用高が五、六万円に達したといいます。
こうして外国絵具はわが国在来の釉上絵具を和絵具と呼ぶのに対し洋彩と称され、輸入は次第に増大しましたが、1891、2年(同二四、五)頃から加賀・有田・美濃に絵具の製造が起こりました。
しかしいずれも小規模で、赤色を主としほかは数種に留まり、品質もまた優良でなく水金などは使用に耐えないとされ、1894年(同二七)頃の金相場暴落時には、粟田焼などでは廃業するものが続出する状態でありました。
その後1901、2年(同三四、五)頃からようやく外国品に匹敵する良品が製造され、1914年(大正三)第一次世界大戦が起こって外国品の輸入が途絶し、加えて陶磁器の需要が激増して絵具の需要もまたこれに伴いましたので、絵具の製造は異常な発達を遂げ、ペリ赤・海碧・岡瑠璃などか創製されて、国内の絵具需要を満たしただけでなく中国へ輸出する程の盛況に達し、山米・草葉・伊勢久・上原・友田組などが製造並びに販売業者として著名でありました。
赤・正円子・海碧・岡瑠璃などは外国品よりも優秀であるとされ、ただ紺・紺青・ヒワ・珊瑚の数種がわずかに遜色を認めゐ程度だったといわれます。
現在使われる釉上絵具は赤・白・黒・空・緑・青・紺青・ヒワ・円子・マロンなど数百種に及び、膠溶き油溶き・ゴム印・漆蒔・石版転写・スクリーン転写などの方法着画され、焼付温度は摂氏650~800度です。焼付窯としては昔は松薪による錦窯が用いられましたが、輸出品を専門とする絵付業者は昭和に入って以降主として電熱窯を使用し、最近では重油・液化ガスによるトンネル窯も使用されます。
釉上絵具製造上最も肝要なことはフリットの組成で、以前は硼砂を主としたがこれは運筆不良・褪色の原因となって良好でなく、その後硼酸を用い硼珪酸鉛を主体としてこれに数種の補助剤を添加して良果を得ています。こうして釉上絵具は第一次世界大戦時を機として品質・産額ともに著しい飛躍を遂げましたが、含鉛物のため焼付温度が不十分の時は、ややもすれば酢酸4パーセント液の侵食を受けて鉛分を溶出し、内務省令飲食物用器具取締規則第四条に抵触することになって過去にしばし紛糾を重ねました。このため無鉛釉上絵具の研究が起こり、珪石30パーセント、炭酸バリウム15パーセント、酸化亜鉛13パーセント、硼砂42パーセントからできているフリットに、着色剤20パーセントを添加した絵具が昭和初期に出されましたが、運筆上・発色上に欠点があって広く使用されるに至りませんでした。しかし無鉛釉上絵具は1912年(明治四五)の鉛毒問題紛糾以来常に陶磁器工業界の問題として残されており、岐阜県駄知上絵付改善会研究所はこの研究に努め、次第に優秀なものを得ました。また陶磁器試験所では蒼鉛を応用した無鉛上絵付を研究し、1923年(大正一二)結果を発表しました。昭和の初期に本荘栄は従来輸入に依存していた転写印刷用の円子・マロン・黒・紺青・セレン赤などの絵具の製造に成功し、輸入絵具よりすぐれた製品を供給しました。第二次世界大戦により陶磁器の生産が停止したためわが国での絵具の製造も中止されましたが、戦後陶磁器産業の復活と共に絵具の製造も再開され、さらに陶磁器の輸出の増大に伴ってその生産量も戦前以上になりました。1952年(昭和二七)にスイスで、1962年(同三七)にはドイツでわが国からの輸出陶磁器の鉛毒問題が生じた時、本荘栄は耐酸絵具あるいはリチウムを使用した無鉛絵具を完成し、この問題を解決に導きました。近年皿洗い機の普及に伴い洗剤に耐える絵付が必要とされ、釉の上に絵付したのち釉が軟化する程の高温で焼いて絵具を釉の中に沈めるという、釉下絵具と釉上絵具の中間的性質を持つイングレーズあるいはシンター・カラーと呼ばれる絵具が開発されつつあります。
(『日本窯業大観』)

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