柿右衛門 かきえもん

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鶴田 純久の章 お話

「柿右衛門様式」の特徴である乳白色の素地〔きじ〕に、明るい色彩の上絵〔うわえ〕(釉薬〔ゆうやく〕の上に絵を描いた)で中国風の人物を描いた1対の大壺。
17世紀はじめに、国内で最初に磁器を作り出した肥前〔ひぜん〕地方で生産され、ヨーロッパに輸出されたもので、アメリカを経由して日本に里帰りしました。
柿右衛門様式の磁器はヨーロッパで人気を博し、18世紀に入ってヨーロッパで最初に磁器の焼成〔しょうせい〕に成功したドイツ・マイセン窯をはじめ各地の窯で、コピー製品が作られました。

柿右衛門 かきえもん

肥前有田南川原(佐賀県西松浦郡有田町曲川)の陶家。姓は酒井田。わが国の赤絵磁器の開創です柿右衛門を始祖とし、現在十三代に及んでいます。初代柿右衛門は初め喜三右衛門と称し1596年(慶長元)生まれ。父円西によって高原五郎七(一説に竹原)を知り、1617年(元和三)南川原において青花磁器を学びました。その後伊万里の人東島徳右衛門が中国人から磁器に金銀泥着色の法を受けますと、共にしばしばその法を試みたが成功せず、ついに呉須権兵衛に相談してようやく法を得ました。そこでこれらを自らの磁器に施して長崎へ持って行き、中国清朝の八観(一説に八官)に売り与えました。これは有田焼が海外に出たはじめであり、1646年(正保三)6月のことでありました。
その名は、藩主鍋島侯の命によって磁器の柿の置物をつくったところ製作が絶妙でありましたので賜ったものですと伝えられます。1666年(寛文六)6月没、七十一歳。代々名を襲い、初代の長男が二代を継いだが1661年(同元)早世し、次男が三代となり1672年(同一二)没しました。
作は初代と同一でありました。四代は1679年(延宝七)没、五代は1691年(元禄四)没。いずれも比較的早世であり、技量は数段退歩したようで、五代の時に一時休窯しました。六代は幼少でありましましたが名工の叔父渋右衛門の後見によって業を継ぎました。1735年(享保二〇)没。七代は1764年(明和元)没、八代は1781年(天明元)没、九代は1836年(天保七)没。この間の事跡は詳かでありませんが、当時かえって大川内焼が盛大とないずれもその庸工でありましたらしい。十代は1860年(万延元)没、十一代渋之助は1917年(大正六)2月に没しました。その大正年間に柿右衛門合資会社が設立されましたが、十二代の1928年(昭和三)に同社を脱退しました。
【名称】一般に柿右衛門と呼ぶ磁器は酒井田柿右衛門の作を指すのは明らかでありますが、その製作は一種の工芸品であり、絶対的一個人のみの所作ではなく多数の工人の手を経たものですので、柿右衛門その人の製作品といいますより単に酒井田家伝承の技法・釉薬・材料によって同家の窯より出た作品を指称すべきものであります。しましたがってそれぞれの器が何代の所作ですかは断言できず、おおよその時代を鑑別されますだけであります。
【特徴】ここに説くのは初代から三代頃までの作品であります。初代柿右衛門は以前すでに青花磁器を製しましたが、これは今日通常藍絵古伊万里と混同されています。柿右衛門の骨頂は染付磁器ではなく絢爛な錦手にあります。その特徴を述べますと、第一にその素地の地肌に玲瓏な乳白の光沢があることであ第二は上絵に用いられた彩釉で、種類が極めて多く、最も普通なのは赤・緑・金・黄・青・紫黒の順序であり、ほかに銀をも用いました。このうち赤の用法には最も苦心し、呉須とよく調和し、古九谷に比較しますと荘重の趣を欠くが瀟洒な特徴があります。さらに緑と黄の色釉がこれに配色されて常に柿右衛門作の主役をなしています。また金付けは仁清のように厚くはないが純粋なものを堅く焼き付けています。第三は模様・意匠であります。これは三種に大別できます。中国清朝の康熙赤絵を標本とあるいは模倣したもの、康熙風の図案から発し純然たる日本風を創意したもの、オランダの影響を受けた西洋風のものがこれであります。そのうち大明成化または万暦年製とある中国風の図案のものは一般に古伊万里と呼んでいますが、最も古い古伊万里は柿右衛門以外にはない道理であります。柿右衛門の意匠による純日本風の模様は、中国式の濃厚な意匠を脱し極めて瀟洒な図案であり、多くは梅と菊を図案化し、他に種々の草花・竹・棕梠・楓・柏・松、動物では鳳凰・竜・鹿・虎・小鳥・人物などで、また柴垣を巧みに描きました。次にオランダの影響を受けたものは、当時の交易で得たガラス・陶器・更紗その他の模様を消化し、写生的な草花および小鳥を図案として応用しています。第四に描画の特徴を挙げますと、例えば緑・黄などを用いて葉および岩石などを描き、あるいは動物を描く際必ず黒色の細い線で大体の輪郭を描き、その上に色彩を掛けています。そして赤色の線に至って巧みを極めています。
【ヨーロッパへの影響】当時ちょうどヨーロッパにおいては真正の磁器の製がありませんでしたので、オランダ貿易を通じて柿右衛門の作品がヨーロッパに入りますと、中国磁器以上として歓迎され、特にオランダのデルフトにおいては数名の専門模倣家を出した程であります。さらにヨーロッパ各国に磁器が製造されますに従い、競って柿右衛門を模倣し、フランス人はこれを「世界第一流の錦手」と称したといいます。
【銘款】柿右衛門の代々が銘を用いたか否かについて信憑性のある記録がありませんが、酒井田家の言によれば角福印を使用し、福字の田の部が螺旋状をしていたといいます。しかしこれは南京赤絵その他の角福を倣ったものであり、これを特殊のものですと称し難いですが、また柿右衛門の約束の一つといいますことができます。1885年(明治一八)にこれを商標として登録しましたが、1928年(昭和三)十二代柿右衛門が柿右衛門合資会社を脱退して「柿右衛門製」の銘を用いますと、角福印は柿右衛門合資会社の所有となりました。なお「元禄何年柿」とある銘は、おそらく六代の後見者でありました名工酒井田渋右衛門の作でしょう。(『工芸鏡』『日本陶磁器史論』『柿右衛門と色鍋島』『やきもの随筆』「酒井田家記録」)※かくふくいん

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