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鶴田 純久の章 お話

害窯に次いで築かれた窯で、半地上式・地上式へと築き出された害窯であります。
室町時代から江戸時代にかけて多く築かれたもので、壺や甕を焼く窯場にみられるものでありますが、中には明治・大正時代まで残されていたものもあります。
いずれも害窯を地上に築いたもので各地にみることができますが、その地形によって若干の相異はみられます。
長さのある大窯では、最下部の焚き口のほか途中に七、八〇センチ位の間隔で補助焚き口が最上部まで設けられているものがあります。
いずれも砂床でありますが、傾斜に応じて窯道具を用いて窯中の器物の水平を保つように工夫されています。
大窯の著しく長いものとして丹波立杭(兵庫県篠山市)の蛇窯があります。
また瀬戸大窯という場合は右とは少し意味を異にします。
慶長(1596-1615)初年に美濃(岐阜県)に唐津式の登窯が伝来した時これを小窯と称し、それより以前の瀬戸系統の客窯を総称して大窯と呼んでいます。
大窯の大は大小の大を表すものではなく元または本の意味であります。

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