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鶴田 純久の章 お話

土佐国(高知県)の陶器。
高知藩窯で窯は高知城北側の小津尾戸(高知市小津町)にあり、のち能茶山(同市)に移りました。
1653年(承応二)の創始で陶器だけでありましたが、能茶山に移窯後は磁器をも焼くようになり現在に及んでいます。
「起原」土佐藩二代藩主山内忠義の時、藩内にはまだ製陶の事業がなく器はすべて国外から供給していました。
宰相野中兼山はこの点を憂慮し大阪高津(天王寺区)の陶工久野正伯を招いました。
1653年(承応二)8月正伯は土佐に来て小津に築窯し、国内の原土を探り、能茶山の土と荊野(同市)の釉石とを得て同年12月に初窯を立てたが初回は失敗し、窯を改築して成功しました。
このことは『南国遺事』『土佐名勝志』に詳しく出ています。
以来藩直営の下で業を続け、1727年(享保一二)火災で高坂橋南詰西窯に移り、1820年(文政三)になって能茶山に移りました。
【陶工】開窯指導者久野正伯は土佐に五年間留まり、その間妻子は大阪にいたのでしばしば往復していましたが、1658年(万治元)帰阪しました。
土佐に滞在した年月は短く作品もまた少ないようです。
すなわち森田久右衛門・山崎平内らを真の創業者とみるべきであります。
共に土佐の人で、正伯について陶技を習得し五、六十年間製陶に従い、多数の作品を残して尾戸焼に多大の功績を生んです。
森肢・山崎の両家は業を相伝して明治維新後まで続いています。
陶工の伝記は各項目参照。
【作品】尾戸焼はもとは藩侯好みの茶器を第一として諸侯への贈呈品に当てられ、余力で民用雑器をつくり、尾戸時代は陶器だけで能茶山に移ってからは合わせて磁器も焼いました。
能茶山焼についてはその項目を参照。
『陶器考付録』には「土は黄、白、薄赤にて釉に貫人なし、後焼きのものは赤土もあり、雑器は瀬戸に似また安南に似る、尾戸の印あるものは近来のものなり」とあります。
『観古図説』には「松柏(正伯)は朝鮮の陶工なり、土薬は妓初は木国より将来のものを川ふ、土薬ともに上器色なり。
白色の幕及び四頚等の模様あるものも見たり、薬の色は沈んで透明せず、質細かくして円からず、薄手にして朝鮮のものにさも似たり。
土佐の玉を用ゐるものは玉の色土将に少し黄色を帯び、薬の色も同じ、光沢沈んで透明せず、質固からず、両は金銀赤緑浅黄等の色にて着けること仁清作と同一なり。
松柏以前に土器を作りしものありて松に鶴の絵を抑形せるものは但伝に狩野元信筆といふ。
近世のものは薬の色白くして青味を少し帯び光沢ありて透明せず、また尾戸土器とて江戸全戸の土器に似たるものおり」とあります。
『陶器類集』には「尾戸は泉田と薩摩の中問なり、白‥は薩摩に似て白く細少なる劈あり、呉須を以て松竹梅等を描けり、上等なるものに至りては狩野家風の絵多く下等品に至りては器地に劈なきものおり」とあります。
なお『陶器全集』中の「尾戸焼」(二巻)、「陶山紀事」(一巻)には尾戸焼および能茶山焼のことが詳しくでています。
同「森田久右衛門日記」と共に参考資料となります。

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