礼賓三島茶碗 銘 四皓

礼賓三島茶碗 銘 四皓
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鶴田 純久の章 お話

重要文化財
高さ:4.8~5.3cm
口径:19.2cm
高台外径:5.0cm
上同高さ:0.9cm

 平戸の松浦家に伝わった三島の名碗で、裏に黒ぐろと、「内資寺」と書かれている句が珍しいです。
 三島には礼賓・興庫・仁寿府・内謄寺・内資寺など、李朝の官庁名を入れたものがあり、わが国では俗にこれを礼賓三島之呼び、三島のうちでも、特に上手のものとしています。三島や李朝初期の白磁に、司号、すなわち官庁名を入れたものがありますが、これは李朝初期に寒気がゆるみ、官物を盗用する弊害がひどく、これを防止する方法として、太宗十七年(1417)四月、官庁で使う器皿には、それぞれの官庁名やこれを作った地名を入れることが法令で決められました。そして、もしこれを民間で使っていますと、官物を盗んだものであることが一見してわかるようにしました。
 礼賓寺は、高麗時代には礼賓省、客省、典客寺などと呼び、外国の使臣や重臣なぞを歓待したところです。朝鮮の古い本には、「賓客燕享宗宰供韻等」をつかさどったとしるしてあります。ここを訪れた日本の使臣が持ち帰ったのか、礼賓銘のものはかなり多くわが国に将来されており、礼賓三島という言葉は、ここから起こっています。
 内資寺は高麗時代の制度をならって、はじめ義成庫と呼んでいましたが、太宗三年(1403)に、内資寺と改められました。「内供米麺醤酒蜜疏果内宴織造等」をつかさどった役所で、李太王の十九年(1882)に廃されています。内資寺、もしくは内資の二字を書いたものが、いくつかわが国にも渡来していますが、遺品は比較的まれで、特に鉄絵の其で「内資寺」と書いた茶碗は、これ以外に見たことがありません。松浦家伝来のこの三島平茶碗は、高台は小さく砂高台で、作りが薄く、施釉も薄いです。見込みには砂が焼きつき、器形、土、三島紋様など、鶏竜山の三島の特徴をよく備えています。
 忠清南道の鶏竜山の窯跡からは、これとそっくりの三島で、鉄砂で同じように「内資寺」と書いた陶片が発見されており、この茶碗は鶏竜山で作られたものと解してまちがいありません。
 素地は鉄分の多い砂まじりの粗い土で、轆轤(ろくろ)で内外に何本か線をめぐらし、その間に土型で、俗にいう三島紋様を内外全面に加え、白土を象眼した上に、薄く透明性の白釉をかけてあ&。焼けが甘いですので、釉面は、じわりとして、釉だまりのところはほんのりと青みをおびています。
 縁に樋が三本、高台にも山きずと呼んでいる焼成中の割れがあり、口辺にも小さいほつれがいくつかあり、これを漆でつくろってあるが完好に近いです。すなおで、やさしい茶碗です。
 鶏竜山の窯跡は、昭和の初めに大々的な発掘が行われ、出土品が相当わが国にも将来されています。しかし伝世の鶏竜山は比較的まれで、一般に広く知られているのは、根津美術館の「上田暦手」と、松浦家伝来のこの平茶碗です。
 伝世品だけに、どこかしっとりとした味があり、白象眼や白化粧のある部分は、薄飴色に変じています。
 内箱は丸春慶塗、朱文字で「禮賓」の二字があり、外箱は桐白木、益田鈍翁筆「四皓」の二字が書いてあります。
(小山冨士夫)

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