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鶴田 純久の章 お話

大名物
重要文化財
所蔵:徳川美術館
高さ:6.6~6.8cm
口径:12.2~12.3cm
高台外径:4.5cm
同高さ:0.7cm

 志野にちかい長石釉の厚くかかった天目形りの茶碗を俗に白天目と呼んでいる。近年美濃の窯跡から出土した、時代のややくだって、桃山・江戸初期と思われるものは何点かありますが、古格のあるこの類の白天目は、尾州徳川家に伝わったこの茶碗と、もと加賀前田家に伝わった自天目の二碗が知られているだけです。ともに大名物であり、重要文化財に指定されています。
 白天目はわが国最古の白い焼き物で、ともに武野紹鴎所持と伝えられます。紹鴎は弘治元年(1555)十月二十九日、五十四歳で没していますので、それ以前の作とみなすべき茶碗です。
 この手の白天目が瀬戸でつくられたか、美濃でつくられたかということは、今日まだはっきりとしていません。白天目の残片は瀬戸の朝日窯からも発見ざれ、美濃では大萱・大平・高根・久尻のほか、かなりたくさんの窯跡から発見されていますが、白天目でいちばん古いこの手の窯が、どこにあったかということはまだわかっていません。土はどうも美濃のような感じがし、定林寺ではないかという説もありますが、将来の研究・発見にまつ問題です。
 素地はざんぐりとした白土で、透明性の長石釉が厚く内外にかかり、腰以下は露胎です。
 よく焼けて釉薬が流下し、腰に釉薬のたまったところはほんのりとオリーブ色を呈しています。内面は見込みがやや高く、そのまわりのわずかにくぼんだ部分に流下した釉薬が厚くたまり、おなじくほんのりとオリーブ色を呈しています。内外全面に荒い貫入があり、これに茶渋がしみこんで黒かっ色になっていますが、茶渋は外側より内面のほうに多くしみこんでいます。
 形は口がひらき腰がすぽみ、高台のしまった建蓋ふうの、俗にいう天目形りだが、中国の建蓋のようなきびしさはありません。とくに口作りは建蓋のように引きしまっていませんし、浅い削りこみのある高台も分厚で柔らかく、建蓋のようにきりりとしたところがありません。どこか暖かく柔らかい感じのあるのは、白天目にかぎらず、日本の陶器全体についていえる特徴でしょう。
 縁に厚い純金の覆輪をめぐらしてあり、白い厚い釉調との調和が美しいです。
 焼成は1250度ぐらい、釉薬はよく溶けて膚がすけて見え、流下して腰や見込みにたまっています。焼成は還元ぎみで、釉だまりはほんのりとオリーブ色を呈し、一見黄瀬戸の淡いようにも見えますが、志野がよく焼けたと見るのが適当でしょう。
袋三つ 白縮緬 茶地石畳唐物裂 紹鴎緞子
内箱 黒塗り 貼り紙書き付け「白天目武野」
外箱 春慶塗り 金粉字形「白天目武野紹鴎所持」
もと武野紹鴎が所持し、紹鴎の子孫の武野新右衛門が、尾州徳川家に献じてより尾州徳川家に伝わった旨が、尾州徳川家蔵品台帳にしるされています。
(小山冨士夫)

瀬戸 白天目 茶碗

Sato tea bowl of Haku (white) temmoku type
Diameter 11.7cm Tokugawa Reimei-kai Foundation Registered
as important cultural Property
高さ6、8cm 口径11.7cm 高台径4.3cm
重要文化財 徳川黎明会
 室町時代後期の大茶人、武野紹鴎所持の茶碗です。尾州徳川家に伝来した、緩やかなカーブをもつ天目茶碗です。全体にかかった白い釉には灰が降り、見込には、ガラス状の薄緑色をおびた釉溜りがあります。また、裾回り釉切れの部分も薄緑色をおぴている。口には真鎗の覆輪がつけられています。素地は古瀬戸茶入などとよく似た土味です。室町時代後期. 天文頃に焼かれたものと考えられますが、現在のところ窯は判然としません。荒川豊蔵氏は久尻の定林寺、または五斗蒔あたりの室町期の窯で焼かれたのではないかと推測していますが、小名田の尼が根窯からも.釉膚に青味のある似た茶碗が出土しているといいます。
 室町時代後期の茶人、武野紹鷗 (1502~55) が所持したと伝えられ、内箱の貼紙には「白天目 武野」と書かれています。胴にはまるみがあり、高台は早い時期の瀬戸天目とはかなり異なって、輪状にざっくりと削り出されています。高台から腰の部分を残して長石の混じった灰釉が厚くかかり、見込や外側釉切れの部分にガラス状に薄緑色の釉溜りが生じています。胎土はやや荒い白土でありますが、伝世の間に変化したものか灰褐色となっています。室町時代後期、天文頃に焼かれましたものと推測されますが、焼かれました窯は判然としません。この作品と類似の前田家伝来の白天目がよく知られています。

瀬戸白天目茶碗 せとしろてんもくちゃわん

肌文、大名物。古い茶会記をみますと、日本製の最も占い天目は 「イセ天目ということになりますが、イセ天目が伊勢地方に焼成されたという確証はありませんし、現存する遺品もありません。
瀬戸天目も古い和物の天目ですが、大部分はいわゆる天目釉、鉄和で、この茶碗のように、長石袖の白天目というのは貴重な遺品です。
総体にかけられた白和の上に、透明な和薬が厚くかかり、その和溜りは青いガラス状にみえています。
白天目を志野釉の祖形とみる説があります。
《付属物》箱-黒塗、貼紙書付
《伝来》武野紹鴎-紹鴎の末孫新右衛門-尾張侯
《寸法》高さ6.6 口径で1.1 高台径4.2 同高さ0.5 重さ270
《所蔵》徳川黎明会

白天目 しろてんもく

白釉天目のことで、これには二種あります。
一つは唐物で兎の斑釉の掛かったもの、一つは和物で志野焼の天目形をしているものであります。
白天目と銘するものに次の三碗があります。
重要文化財、大名物、古瀬戸、天目茶碗、徳川義親旧蔵、現在徳川黎明会蔵。
重要文化財、大名物、古瀬戸、天目茶碗、前田利為旧蔵。
大名物、天目茶碗、徳川家達旧蔵。
※てんもく

美濃 白天目茶碗

Mino ware: tea bowl of temmoku form. 16th century. Diameter 12.1cm. Registered as Important Cultural Property. Tokugawa Reimeikai Foundation.
大名物
16世紀
高さ6.5cm 口径12.1cm 底径4.4cm
重要文化財
徳川明会
 室町後期の大茶人武野紹鴎所持の白天目茶碗として、前田家伝来の白天目茶碗とともに夙に著名なものです。徳川家由緒によれば「本品は武野紹鴎所持せし品なり 紹陽の末孫新右衛門なるもの当家に贈り 示来相伝す」 とあります。この新右衛門は名古屋市史によれば武野仲定といい、紹鴎の外孫で、宗瓦の女婿でした。織田有楽に仕え、のち藩祖義直に召し出されて寄合となり、四百石を賜ったといいます。
 この白天目茶碗は形態的にみれば、口縁下のくびれが明瞭でないことや腰の丸い、立ちの高い姿、削り出し高台の形状などの点からみて、15世紀末から16世紀初めにかけての作品と考えられます。黄褐色のざんぐりしたやや粗い素地はその釉薬とともに、これを美濃の製品と考える可能性を示しています。この白釉は層がきわめて薄内面見込や外面下縁の部分に淡緑色の灰のだまりがみられる点から、一部には裸焼きによる灰被りとみる説もありますが、灰釉が全面に均等に及んでいることや、器面に付着物の全くみられない点などからやはり匣鉢に入れて焼いたものであり、長石を主にし、これにを加えた志野釉とも呼ぶべきものと考えられます。近年、小名田尾ヶ根窯あるいは大平山の神窯からやや近い灰志野釉の破片がみつかっており、美濃で発見される可能性を強めたといえましょう。

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