高さ:9.3~9.4cm
口径:8.4~8.5cm
高台外径:5.2~5.3cm
同高さ:0.6~0.7cm
伝世したいわゆる高麗茶碗の中では、最も古作に属する茶碗の一つであり、おそらく高麗時代の後期に焼造ざれたものでしょう。したがっていわゆる古雲鶴、または狂言袴と称されている茶碗と同類ではありますが、これはさらに古く、これほど高麗象眼青磁の格調をよく伝えた伝世の茶碗は他に見ません。
ところでこの種の筒形茶碗は、室町時代の末期から桃山時代にかけて、かなり賞玩されたらしく、千利休所持として有名な「挽木鞘」もほとんどこれと同形で、いわゆる「狂言袴」と称されている茶碗であり、他に「三島筒」も所持していたことから、特に利休は筒茶碗を愛用したことがうかがわれ、あるいは利休好みといわれる瀬戸黒の筒茶碗も、この種茶碗の形姿を倣ったものかもしれません。
前述のように、この茶碗は伝世の高麗茶碗の中では最も古作のものであり、したがって朝鮮から渡って来たのも、かなり古い時代のことではなかったかと推測されますが、内箱はさほど古いものではなく、しかもその書き付けは遠州の筆体で「三島茶碗」と書かれています。しかしこの茶碗は明らかに三島手ではなく、いわゆる高麗茶碗であり、あえて古来の類別のうちに加えるならば、古雲鶴手に属するものです。それを「三島」としたのは、おそらく紋様が雲鶴や狂言袴とも異なるところから、致し方なく釉膚の色調がやや類似しているのによったのでしょう。あまりにも作ゆきが整然としているため、いわゆる佗びの茶碗としての味わいに、いささか乏しいとみる人もありますが、たしかに佗びの茶碗というよりも、むしろ鑑賞の場において一方の雄たりうる名碗であり、古様の高麗茶碗としての資料的価値はきわめて高いです。
胎土は、おそらく高麗青磁特有の灰白でしょうが、露胎部は全く見られません。高台畳つきには砂が付着して、いわゆる砂高台をなしています。高台は比較的大きく、そしてすなおに削り出されていますが、おもしろいのは高台内の作りで、あたかも七弁の花を見るように指先で花弁状に作りだされており、このような例は他には知りません。
外側に現された白と黒の象眼紋様は、裾に白象眼で請け座状の二十弁の蓮弁紋をめぐらし、上部には白・黒の象眼で、四段それぞれ二十六個の亀甲紋をつないで、いわゆる亀甲つなぎ紋を現しています。亀甲紋は高麗後期の象眼青磁にはよく見ますが、’これほど細かく、しかも整然と埋めてあるのは、ほとんど見ません。しかも茶碗の例は、管見の限りではこれ一碗です。口辺には雷紋つなぎが白象眼でめぐらされ、総体にかかった青磁釉はかなり厚く、全体に貫入が現われています。
また外側には現れていませんが、内側の上半部には五段に轆轤(ろくろ)目がぐるぐるとめぐり、深々とした筒茶碗の味わいを一段と高めています。また見込みには灰が降っています。
一部に破損、金繕いのあとがありますが、口縁から裾まで一本、胴の中ほどまでの割れ四本です。
付属物の袋は茶色地の緞子で椿の花唐草が織り出されています。古い時代の伝来ぽ判然としません。
(林屋晴三)