瀬戸で生産された陶器のうち,鎌倉時代の初めから室町時代の中頃までの施釉陶器(せゆうとうき)を古瀬戸と呼びます。従来、その起源は陶祖加藤四郎左衛門景正(通称藤四郎)による中国製陶法の招来とされています。
道元禅師が貞応2年(1223)、明全に従って宋に渡ったとき藤四郎が道元の従者として渡宋し、禅修業の傍ら逝江省の瓶窯鎮で製陶の修業をし、安貞2年(1228)帰国後、尾張の瀬戸に窯を築き、中国風の陶器を焼いたのが始まりと伝えられています。
近来は桃山時代以前の瀬戸陶磁器を古瀬戸と概称する場合が多いようです。
「灰釉(かいゆう)」のみが使用された前期(12世紀末~13世紀後葉)、「鉄釉(てつゆう)」が開発され、素地土の柔らかいうちに印を押して陰文を施す「印花(いんか)」、文様をヘラや釘、クシ等で彫り付ける「画花(かっか)」、粘土を器体に貼り付けて飾りにする「貼花(ちょうか)」など文様の最盛期である中期(13世紀末~14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉~15世紀後葉)の三時期に区分されています。
前期の「灰釉(はいぐすり)」は、朽葉色の釉薬で戦前一般には「椿手(ちんしゅ)」と呼ばれました。
鎌倉後期以降の「鉄釉」は鬼板という天然の酸化鉄を釉薬に混ぜたもので、黒若しくは黒褐色に発色します。
今日、この黄釉若しくは黒釉の掛かったものも古瀬戸と称することがあります。