古染付 こそめつけ

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鶴田 純久の章 お話

古染または古染付と称されるものについては、従来ほぼ二説があると考えてよい。一つは、古染は古渡りの染付を指称するもので、中渡り新渡などと対称すべき名称であるから必然的に古い染付であるとする説。もう一つは、古染といっても必ずしも古渡りであることを要せず、ただ虫食があるなどその外観が古拙で、一見いかにも古い感じがあればこれを古染と称する説。いずれにしても古染はわが国のやきものではなく、中国のやきものであってわが国に渡来したものをいう。従来茶人・骨董商らが古染と称する実物はおおむね明朝末期の染付と認められるもので、清朝と思われるものは古染とはいわないようである。いわゆる古染というものをみると、明朝天啓(162~7)頃の民窯の所産特に下手物と認められるもので、あるいはさらに時代の古いものがあるかもしれないが、その数は稀少であろう。古染の品種は高砂手の花生、鶴の模様の手桶形水指、富士形・銀杏・紅葉の鉢、馬の絵の手鉢、羅漢手の反鉢、脚付の魚形あるいは半扇・結文・洲浜・木瓜など種々のものがあるが、これらの品物は中国においてはほとんど現存するものがなく、しかもわが国においては今日かなり遺存している。またこれら古染の形および図案の中には、明白にわが国より注文品であるか、または日本向輸出品としてつくられた証拠を認められるものがある。例えば富士山形の鉢、御所車の手鉢などはその著しいものである。このことから推測して、古染というものはあるいは全部が日本向のために特に中国においてつくられたもので、中国人は知らないやきものであるという説があるが、この種の下手物は中国においては民間一般の雑用品であったから当時とれを珍重する者がなく、ことごとく破砕し去って今日ほとんど一品をもみられなくなるに至ったのであろう。これに反してわが国に渡来したものは、唐物・舶来などと称して珍賞されたのはもちろんのこと、一度茶人の手に渡り種々の箱書・伝来などを付せられると、大金をもって取り引きされるようになり、したがってこれを珍重すること金銀珠玉にまさる風であったから、わが国には多数残存したのであろう。これと同じ例は茶人の珍重する朝鮮製の古い茶碗においても認められる。
これらはおおむねかつて朝鮮の農夫・労働者らの飯茶碗であったもので、朝鮮においては廉価の日用品であったので重視せず、製品もすぐに破砕し尽くし、今日存在するものはわずかにわが国の茶人の間に珍重される限られた数のみとなり、法外の市価を有するのである。なお古染の産地は景徳鎮である。(尾崎洵盛)

古染付とは必ずしも古渡りであることを要せず、今日では明末期に景徳鎮の民窯で特に日本向けに作られたと思われる独特の風趣のある器形や文様をさし、口縁部や稜線部などに「虫喰い」とよぶ釉はげが見られ、茶人には大いに好まれ日本に多く残存しています。
  この水指の口はまっすぐ立ち上がり肩から胴の上部にかけてゆるやかにふくらみ、底部は口とほぼ同径の高台に支えられています。
胴は五面に線割りされ、各面には理想郷にたたずむ仙人が軽妙に描かれています。
呉須(コバルト)はやや黒味がかるものの鮮やかな発色となっています。
蓋は丸枠の中に桃が描かれ丸枠との間にはさや形の文様で埋められており、日本からの注文品として作られた祥瑞の意匠を意識したのかもしれないようです。
また、つまみは前足を立てて座る獅子の姿となっており、民窯ならではの大らかさと独特の風雅な趣が見られます。

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