金属で作られた器物の表面に凹部を作り、そこに鉱物質の色剤を入れ、熱して溶着させたもの。
色と色との間を針金で区切って模様を表す有線七宝といわれるものが一般的ですが、その他にも金属線を省いた無線七宝、透明な色剤を用いた透胎七宝などの種類があります。
一種の琺瑯器。その色彩は仏典のいわゆる金・銀・瑠璃・・玻璃・真珠・瑪瑙(あるいは金・銀・瑠璃・御礫・瑪瑙・珊瑚・琥珀)などの七種の貴品に似て、整琉燦爛で珍重すべきものであるためこのように名付けたのである。わが国におけるその製作の淵源はかなり古いが詳細はわからない。
ただ『大宝令』大蔵省典鋳司の条下に七宝を製することを制定しているのがみえ、また奈良の正倉院宝庫中にある御物鏡の背面に、宝相華を鋳出し七宝釉を施したものがあるのをみると、上古よ七宝術の伝存していたことは疑いない。しかし鎌倉・室町両時代にはこの術を伝えて製作したものがあったことを聞かない。相阿弥の『君台観左右帳記』および『蔭涼軒日録』などに七宝の記事がみえるが、おそらくこれは中国明代の大食窯・鬼国窯の製品が舶載されたものであろう。一千年もの長い間、ようとしてこの術を伝えた者がな製作がまったく途絶えたことがわかる。しか慶長年中(1596~1615)に京都の平田道仁という者が徳川氏の命を受けて朝鮮人(一説オランダ人)より七宝の製法を得、子孫にこの業を伝えた。また小堀遠州の時代に金工の嘉長という者がいてこの技を能くし、さらに享保(1716~36)の頃の菅長厚もまた名手と称された。
七宝が盛んとなったのは江戸時代末期であり、文化年間(1804~18)に尾張国海東郡服部村(名古屋市中川区富田町服部)の人梶常吉によるものである。常吉はたまたまオランダ製の七宝器を長年研究していたが、1831年(天保二)ついに小盒をつくることができて名声がようやく喧伝された。以後その法は泰二・林庄五郎・塚本儀三郎・塚本貝助・塚本甚右衛門・桃井英升・山本又三郎・七宝会社東京工場名古屋七宝会社・並川靖之・山梨県農産社・竹内忠兵衛・濤川惣助・後藤省三・安藤重兵衛らと広まり伝えられ、明治期には続々と新案が創出されたのと相まってわが国七宝の技術は世界に賞揚されるに至った。1907年(明治四〇)当時の輸出額は十四万六千余円で、愛知・京都を主産地としていた。製法による分類は有線・無線・有無線・盛上・省線・窯変流釉・透明七宝(篭目七宝・緋七宝)・省胎などである。(『黒川真頼全集』『芸窓襍載』)