志野 しの

志野茶碗 銘卯花壇
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鶴田 純久の章 お話

桃山時代に美濃(岐阜県)で焼かれた白釉の陶器。
素地は「もぐさ土」という鉄分の少ない白土で、長石質の半透明の白釉が厚めにかかり、釉肌には細かな貫入や「柚肌」と呼ばれる小さな孔があり、釉の薄い口縁や釉際には、「火色」(緋色)と呼ばれる赤みの景色が出ます。絵模様のない「無地志野」、釉の下に鬼板で絵付けした「絵志野」、鬼板を化粧がけし文様を箆彫りして白く表し志野釉をかけた「鼠志野」、鼠志野と同じ手法で赤く焼き上がった「赤志野」、赤ラク(黄土)を掛けた上に志野釉をかけた「紅志野」、白土と赤土を練り混ぜ成形し志野釉をかけた「練り上げ志野」があります。
さらに近年、大窯で焼かれた志野(古志野)と区別し登り窯で焼かれたものを「志野織部」と呼びます。
天明5年(1785)の『志野焼由来書』に「伝言、文明大永年中、志野宗心と云う人ありて茶道を好む故に、其の頃加藤宗右衛門春永に命じて古瀬戸窯にて茶器を焼出す、是を志野焼と称します。
」とあり長く瀬戸で焼かれたとされていましたが、昭和5年(1930)の荒川豊蔵(1894~1985)の古窯跡調査以降、美濃の可児・土岐などの窯で黄瀬戸・瀬戸黒・織部とともに焼かれたとされ、志野宗心についても、貞享元年(1684)刊の『堺鑑』に「志野茶碗 志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也 但し唐物茶碗の由申伝。」とあるように今云うところの志野焼とは異なるとされます。
元禄頃までは志野焼は織部焼と目され、千宗旦の弟子の城宗真が、織部好みの焼き物に「篠焼」と名付けてから織部焼と区別されたとされます。

 

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