鶏竜山 けいりゅうざん

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鶴田 純久の章 お話

朝鮮忠清南道公州の東南16キロに屹立する鶏竜山の山麓傾斜面には、高麗末期より近年に至るまでの多数の窯跡があります。
1934年(昭和九)12月以降盛んに発掘されて有名となりました。
ここで発見された陶器を今日普通に鶏竜山三島といいます。
中国の南北両方より伝来した技術がここで和合したといえないであるだろうか。
窯跡から出土した陶器の形状は千差万別で、種類はほぼ次の六種。
【三島手】文様は押型を用いて点線文・波状文を縦列に、あるいは蛇の目文・剣先文・雷文などを横列に器物の表面に押し付け、白土をその上に塗って凹所に嵌入させ、そのあと文様外の白土を削り取り、釉薬を施して焼成したものです。
あるいは箆の類で竜・柳・花弁文・牡丹文のようなものを彫り白土をその上から塗って凹所に嵌入させ、さらに釉薬を施したものや、押型と箆とを併用したものもあるようで、また内面を三島手文、外面を刷毛目としたもの、内面を刷毛目、外面を三島手文としたもの、内外共に三島手文としたものもあります。
細小の花文の密集したもの、あるいは蝶形文の連続したものを別に花三島と称します。
また往々に文様の間に文字のあるものもあります。
これらの文字は白象嵌で「慶州長興庫」「昌原長興庫」「長興庫」「長安庫密具」「内膳」「内噌」、あるいは鉄釉で「礼賓」「内資寺」「洪字」「大」などと書かれています。
長興庫・内牌・礼賓・内資寺の文字があるものは、その官署で所用の器具であったものです。
三島手以外のもので文字かおるものは、わずかに「戒」「果」と書かれた碗および鉢が発見されたに過ぎないようです。
反浦面鶴峯里でも「成化二十三年」「皇明弘治三年」「嘉靖十五年」の年号銘のある墓誌銘版の断片、その他多数の墓誌銘版の断片が発見されました。
【刷毛目】胎上が鼠色でまた層が粗く美しくないため、白土を毛の強い刷毛で一気に器物の表面に刷きその上に釉薬を施して焼成したもので、刷毛痕の明瞭に残っているものもあります。
【絵三島】絵高麗より変化したもので、胎土の上に白土を塗りその上に鉄釉で模様を描き、上釉を施して焼成したものです。
文様は蓮花・唐草・草葉・菱形・魚などで、すこぶる豪快勁健の性質を表わしています。
「彫三島」胎上の表面に白土を塗り、箆のようなもので文様を描いて地土を現わし、さらに上釉を施して焼成したものです。
文様は非常に粗大放胆で、双魚・木葉・唐草・蓮弁のようなものを多く用いています。
「黒釉」胎土の上に鉄釉を施したもので、その釉は帯茶黒釉であります。
総じて反浦面で発見のものは、匝鉢を用いず高台の下に数個の珪砂を置いて重ね焼きしたのに、ただこの手のものに限り、大部分は珪砂の代わりに器物の底部に刷毛で白土帯を一気に描き、そこを重ねて焼成しました。
【白磁】反浦面の陶窯址から多少青味を帯びた白磁が発見されました。
胎上は帯青灰白色で堅く締まっています。
この種のものは従来三島手・刷毛目より後年のものと思われていたが、発掘調査の結果同時に焼成されたものだということがわかりました。
[年代]三島手および刷毛目の年代は、従来の学者は往々高麗末期に始まり李朝に及ぶといいますが、その製作の技巧、釉薬および文様の性質は高麗時代の青磁器と大いに性質を異にしています。
反浦面窯址出土のものは三島手・刷毛目が最も優逸細麗で雄大な特色を現わしています。
出土墓誌陶版に記されたところからも、また器物に李朝諸官署の文字があることからも、これは明らかに李朝初期に製作されたもので、傍証もあります。
三島手および刷毛目は高麗時代の青磁器よりはやや深さを増し、手法の性質により厚手の感が深く、また高台は雄大であります。
(『鶏竜山麓陶窯趾調査報告』)

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