高取焼は元々、福岡県直方市にある鷹取山の麓にて焼かれており、朝鮮出兵の際に陶工、八山(八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。
窯場には永満寺窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯があり、これらを「古高取」と呼んでいます。
江戸時代には黒田藩の御用窯として繁栄、元和年間には唐津からの陶工を招き、技術を向上させています。
そして寛永年間に入りますと、二代目藩主黒田忠之は親交の深い小堀遠州と交流を深め、遠州好みの茶器を多く焼かせました。
それが縁で、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶産地として名を高めることとなりました。
この頃の中心は白旗山窯で、遠州好みの瀟洒な茶器は「遠州高取」と呼ばれました。
その後は小石原に移り(小石原高取)、より繊細な作品が多く焼かれました。
以後は、福岡の大鋸谷に移転(御庭高取)、18世紀には「東皿山」と「西皿山」に分けられ、細分化されていきました。
今日では数カ所の窯元が至る所に残っており、廃窯した窯場にも再び火が灯ったりと、再興しています。