中国南宋後期の官窯で、杭州の嘉会門外16キロの地にある南宋時代の郊壇の下にあります。
それでまた郊壇下新官窯ともいいます。
この窯跡を指摘したのはおそらくペリオが最初で、1923年の『通報』紙上の「咸淳臨安志」の記事中に「青器窯は雄武営山上の円壇の左右にあり」とあるのがそれであります。
郊壇窯址は鳥亀山の西麓にあるようで、この小山は郊壇の遺蹟で今なお段状をなしているといいます。
郊壇窯の本質がどのようなものであったかについては、窯跡から採取された破片によって今日ほぼ明瞭となっています。
すなわち胎土は蒼灰色を帯び、時としてやや淡黄色をみることがあります。
そして露胎のところ例えば高台はほとんど黒色であります。
釉の直下も同じく黒色となっていて、破砕面をみると内外の釉下に黒色の細線をみることが多いようです。
この黒色特に釉下の黒色については、氷裂の間隙から空気が侵入して酸化したためだとの説もあるようだが非常に疑わしい。
脊窯の紫口鉄足を模出するために、鉄分に富む土あるいは釉の類を胎。
の上に塗ったものであるだろうか。
釉は美しいものに至っては非常に艶麗な青翠色で、大きな氷裂紋に伴って濃淡がありとりわけ美観を呈しています。
加えて釉面は平滑で光沢があります。
薄手が普通。
もっとも中には釉色が黄褐色に傾いたものがあるようであります。
これを脊窯だという説があるが疑わしい。
なお南宋初期の官窯である修内司窯が郊壇下に移った時期、およびその最後の焼造を行なった時期などは不詳。
ただし現在の中国では徹底的な発掘が行なわれているものと推測されます。
郊壇窯の遺品は台北の故宮博物院の収蔵品に著しいが、わが国では東京国立博物館の輪花鉢(横河コレクション)・踪形瓶(広田不孤斎寄贈)などがあります。
(尾崎洵盛)