高田焼 こうだやき

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鶴田 純久の章 お話

肥後国(熊本県)の陶窯。
別名八代焼。
1632年(寛永九)細川忠利か豊前国(福岡県)から肥後国に転封されると、かねて先代忠興に召されて豊前国上野焼に従事していた上野喜蔵(尊楷)は、長男忠兵衛・次男藤四郎を伴って肥後国に移り、八代城に近い八代郡高田郷奈良木村(八代市奈良木町)の地に開窯しました。
これが高田焼のはじめであるようで、藩の御用窯であります。
その後二十年余りして1658年(万治元)豊原村字平山(八代市豊原)に移り平山焼とも呼ばれた。
1669年(寛文九)忠兵衛が家を継ぎ、藤四郎は分家しました。
藤四郎には栗右衛門・太郎助の二子があるようで、1716年(正徳六)太郎助か分家して高田焼の窯屋は三家となり、いずれも藩の俸禄を受けて子孫が継業しました。
その製器をみると初代から三代頃までは主として茶壺・茶碗などを出し、概して薄づくりで、素地土は赤褐色、釉は青白色または黒色で、古帖佐・高取・朝鮮唐津に似たものが多く世に肥後薩摩と称されました。
正徳(1711-6)の四代藤四郎に及び、原料・釉・窯の構造を改めると共に黒白嵌土の法を案出し、ついに高田焼の陶法を一変させました。
また文化年間(1804-18)の七代野熊は名工として名がありました。
しかし明治の廃藩に際して次第に衰退し、平山窯を廃して芦北郡日奈久(八代市日奈久)に窯を移し庭三および吉原二分造がこれに従事しました。
その後現在に及ぶ。
近年の作品は茶器類が多く全体に青灰色で蔓釉を施しています。
また素地中に白土で三島手様の細線、細川家紋の九曜星または菊花などを象嵌しています。
(『陶器考付録』『本朝陶器孜証』『観古図説』『工芸志料』『肥後国志』『陶器類集』『日本陶磁器史論』『日本陶器目録』)

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