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鶴田 純久の章 お話

銘 沼田
高さ:6.7~6.9cm
口径:12.4~12.7cm
高台外径:4.3cm
同高さ:0.7cm

かつて、松平不昧公が所持していた茶碗で、『雲州名物記』に、
黄天目 沼田天目台 利休文 奈良や源七
として、所載されている茶碗に当たり、「名物並之部」に列されています。不昧公の蔵となった年代は不詳です。添え物の千利休筆消息の文面は、
此天目きてんもくにて候
夜前閑談本望ゝゝ
又一儀承届満足二存候
与様御気遣今分二候へは
安度申候 恐惶謹言
七月 十六日

枩新さま人々御中
とあり、宛名の「枩新さま」は、利休と親交のあった、細川家の家老、松井佐渡守康之で、通称を新介といいました。文中の与様は、いうまでもなく細川三斎です。
松井佐渡守から茶碗を見せられた利休は、「黄天目にて候」と言っているがその作ぶりは灰被天目とされています。紀州穂川家伝来の茶碗と素地釉調ともにきわめて類似し黄天目として尾州徳川家に伝来した茶碗とは異なっています。尾州家の黄天目は黄褐色の釉調でいかにも黄天目というにふさわしい作ぶりですが、この「沼田」は、むしろ灰被としたほうが、いいのではないでしょうか。そして、また、藤田家伝来の黄天目と、尾州徳川家の黄天目とを比較しますと、これまた異なった作ぶりであり、さらに尾州徳川家伝来の灰被と、紀州徳川家の灰被を比較しますと、これまた作ぶりは、全く異なったもので、尾州の灰被は、建窯の作と推測されるのに対して、紀州の灰被は、建窯とはいいがたいです。
以上によって推測すれば、古来、灰被、あるいは黄天目と称されている天目茶碗は、きぴしく分類されたものではなく、「沼田」のように灰被状のものでも、黄色の強く出たものは「黄天目」としたりしていて、拝見におよんだときの主観によって、類別していたことがうかがわれます。釉がけは、紀州家の灰被と同じく二重がけで、釉切れの裾まわりは黄色く、上部と見込みは、黒く光沢のある釉膚をなしています。そして反対面の内外に、口辺から胴にかけて、油滴状の銀色の斑紋が、静かに現れています。
灰鼠色の、やや荒めの素地膚をみせた高台は、畳つきに面取り箆をいれ、高台を曲面に削り出しています。高台内を、曲面に削り出す作ぶりは、建窯の天目にない作ふうといえます。
高台ぎわに、黄色の飛び晰のあるのが印象的であり、また高台内に、「十」字の朱漆書き付けが施されています。覆輪は、銀覆輪。
桐内箱の蓋表に、「沼田黄天目」、堆朱輪花の天目台の箱に、「沼田天目」、大柄の椿紋様の白地金欄の袋の箱に、「招田 黄天目袋」の文字が、いずれも不昧公の筆で書されています。
不昧公以前の伝来は、「雲州名物記」に、奈良屋源七とあるだけで、利休の文が、当初から添っていたとすれば、利休時代に、松井佐渡守が、所持していたのかもしれません。
(林屋晴三)

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