朝鮮唐津 ちょうせんからつ

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鶴田 純久の章 お話

唐津焼の一種。天正から寛永(1573-1644)年代の所産とされ、藤ノ川内窯・鬼子嶽帆柱窯・鬼子嶽皿屋窯・道納屋谷窯・金石原広谷窯・大川原窯などで焼成されました。
海鼠釉と黒飴釉を掛け分けにしたもので、土質は赤黒であります。
水指・花入・皿・鉢などが多く、茶碗は稀であります。
唐津の窯で焼かれたことと、作風が朝鮮中部の諸窯で焼かれたものの流れを汲むところからの称であるでしょう。茶道辞典 淡交社より

本来は朝鮮産か唐津か区別のつかない、たたきづくりで板おこしになり、貝高台又は籾殼高台で内部に青海波紋があり、土灰釉か鉄飴釉をかけた壺などを朝鮮唐津と呼んだといわれますが、現在では白濁色の藁灰釉と黒飴釉をかけ分けたものを朝鮮唐津と呼んでいます。
作品には水指、花入、徳利、茶碗、皿などがあり藤の川内窯で開かれたものが多いようです。
 
朝鮮唐津とは絵唐津・斑唐津など、代表的な唐津の装飾の一つで、黒飴釉の上に海鼠釉を掛けたりまたその逆海鼠釉の上に黒飴釉を掛けたりしたものです。
この技法は全国の諸窯などに数多くありますが、朝鮮唐津は、黒飴釉の部分と海鼠釉の部分とを別々に掛け分けて、やや重なり合った部分が高温でガラス化し黒の部分と白の部分が溶け合い、絶妙な色と流れ具合の変化が特徴になります。
その名称の由来として、一説によりますと当時外国と言えば朝鮮が一番身近のようで、外国と言えば朝鮮という意味合いから来て、異国の所産のような唐津焼、朝鮮唐津と伝えるようになったようです。
でも朝鮮半島には朝鮮唐津のルーツになるような品々は少なく、日本に渡ってきてから発展したと解釈した方が良いと思います。
唐津焼とは、初期の頃は壺・皿・碗等の一般民衆が使う器を生産していたのですが、桃山時代の豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592)頃より秀吉をはじめ千利休・古田織部等の武人茶人達の影響を受け、お茶の文化が入ってき来たようです。
そのような時代的な背景で形状や装飾等に変化が現れてきたように思われます。
装飾の面では、初期の唐津には単独の顔料で絵を描き一種類の釉薬を掛けているだけが多かったのですが、時がたつにつれ絵唐津や青唐津などもそうですが、朝鮮唐津は特に、織部焼がペルシャの陶器に影響を受けたように唐津もそのようで、それぞれ違う釉薬を使い分けた装飾法が発展したと思います。
今でこそ流れ具合を重要視しますが、昔は、ただ掛け分けたという感じが強いようです。

朝鮮唐津 ちょうせんからつ

骨董家のいわゆる唐津名物の一つ。天正(1573~192)から寛永(1624~44)年代の所はくりゅうせき朝鮮唐津水指産とされる。土質は赤黒で、青白を交えたいわゆ海鼠釉と黒飴釉を施す。水指・皿・鉢に多く茶碗はまれである。最近の発掘の結果によれば、藤川内窯・鬼子嶽帆柱窯・鬼子嶽皿屋窯・道納屋谷窯から主として出土するという。(『工芸志料』『茶わん』二七)

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