楽焼の始祖。名は長祐、長次郎は通称、長二郎あるいは朝次郎ともあります。初め佐々木姓でしたが、のち千利休から利休の初姓「田中」を与えら田中長祐と名乗り、以来田中長次郎の通称があります。長次郎は秀吉の優遇を受け「楽」の字の金印を下賜され、楽焼の始祖・楽家初代と仰がれました。
【伝記】通説に父は帰化人阿米夜(宗慶)で、1516年(永正一三)京都生まれとあります。長じて陶法を習得しその製品は京焼または今焼と呼ばれました。これが京都での施釉陶器の濫觴だといわれています。1574年(天正二)織田信長の命で棟瓦を焼き、1585年(同一三)豊臣秀吉が聚楽第の工事にかかるとその瓦の装飾部分を焼造したと伝えられます。また1577年(同五)には利休の指導の下に赤および黒茶碗を焼いて信長に献じたともいわれます。のちもっぱら利休の推挽で御用窯師として聚楽第内で製陶を始め、声名は大いに上がりました。秀吉はこれに天下一の称号を許し、また「楽」字の金印を賞賜しました。この時から長次郎の作世間では聚楽焼または単に楽焼と呼ぶようになりました。ただしこれについては諸説があり、金印は二代常慶が拝領したもの、また楽焼の名も二代の頃から通称されたのだとする説もあります。また長次郎がその楽焼という独特の陶法を創成するまでの経過についても数説あり、「長次郎、宗易の命を受け中華に入って、茶をよく極め茶の味を能する薬を伝受して帰朝し茶碗を作る、宗易大に悦び則ち帰朝の朝の字を取り朝次郎と改む」というよまうに、中国明に入って陶法を得たとする説もあります。また別には黒高麗の法を得るため朝鮮の草梁鎮に行ったのだともみえています。しかしこれらはいずれも確実な証拠があるわけではありません。要するに長次郎が創成した楽焼はわが国独自の発達をとげた茶道の要求によるもので、その直接の扶助指導者は茶道の大成者の千利休です。楽焼という窯芸の発生に関しては利休を除外しては考えることができません。なお伝えるところによれば、長次郎は諸侯その他の所望にかかるものだけをつくり、作品を売ることはしなかったといいます。1589年(天正一七)没。法名最勝院長祐日元居士。
別説に享年47歳とあります。
【作品】『大正名器鑑』にみえる「按ずるに長次郎茶碗は、小形多くして大形は甚だ稀なり、是れ蓋し利休が草庵佗び茶に小形を好みたる結果なるべく、尚ほ其懐を深くし、又温度を保つがため筒形又は稍抱へ気味の口作を選みたるなど自から当ふい時の実用を旨としたる者なるべし。而して長次郎には黒釉中に茶味を含みたる者あり、赤釉に白釉浮みたる者あり、一種独特の釉質、後人の擬似を許さざる者あり。最初は其形状に於て朝鮮の井戸、熊川、玉子手、伊羅保等を狙ひたる者ならん漸く一種の工夫を凝らして終に日本一流楽焼の法門を開くに至れり、是れ畢竟茶道に於ける利休と陶器に於ける長次郎との意匠手腕が相合体したる者にして云々」という記述はその制作に対する概説ですが、さらに手法および作行について考えるに、その窯技上の手法はほとんど手捏ねで轆轤を用いず、焼き方もまた個人窯ともいうべき小振な窯または鞴で一個ずつ焼成したものであろうと伝えられます。また火度は低熱で、置き冷しにするというものと、鋏出しであるというものとの二種の見解があります。その置き冷しと目される茶碗には自然に灰をかぶり釉面に光沢がありません。もし火替わ発呈することがあれば灰白色となります。それゆえ器の面にみられる柚肌も天然に出て、後代のものと比較すると瑩沢はほとんど認め難いです。また火色の関係で赤が茶褐色あるいは淡い白茶風に焼成されています。そして坏土は岡崎あたりのものを用い、上釉の黒の原料は四条と五条の間の河原で拾得した俗に真黒と称する黒石を用いたと伝えます。
なお釉には赤・黒二種のほか白釉の浮かんだものもあります。次に作行をみますと、口造りは何ら匠気がなく、内側へつぼまり蛤歯状をしたものが多く、胴にくびれのあるものが多いです。高台は低めのものが多く、高台づくりは無技巧のうちに自然美の豊かさをたたえています。また茶溜まりはすべて深目にえぐられたものが多いです。これを一言でいいますと、閑雅で内に無限の気宇を蔵するものといえます。その作には世に有名な長次郎七種(利休七種)茶碗、同じく新組七種茶碗のほかに、『古今名物類聚』に出ていて上記以外のものが四十三碗、『大正名器鑑』に出ている上記以外のもの二十三碗(内六碗は利休の命名)、その他『楽焼』『茶道』にみえたものも多いです。なお茶碗以外の作に、「天正二春依台命長次良造之」の款のある獅子棟瓦、交趾風の平鉢、「天下一ラク長次郎」の銘のある水指、炮烙などがあるといいます。(『陶器考』『本朝陶器攷証』『工芸志料』『観古図説』『日本陶器目録』『エ芸鏡』『日本陶瓷史』『大正名器鑑』『楽焼』『楽工陶伝』)
楽茶碗は千利休の創意により、長次郎が作り始めたものであります。
長次郎の茶碗は数多く伝世していますがその作行きは同じではないようです。
この黒茶碗は姿の整った半筒形で、手びねりで作られ、見込みのかせた釉調に対し、外側には光沢が残っています。
添え状には「大黒」と同寸であることが記されています。
端正な姿は「大黒」と共通するところでありますが、張りの強い腰ややや幅広の高台畳付(挿図)からしますと、初期の頃からやや降った時期の作と思われます。