人物・動物を象った土製品。わが国では縄文式時代の遺物として知られているが、古くは古墳時代の人物埴輪も埴輪土偶と呼んでいた。縄文式時代の土偶は女性を象ったものが大多数であり、乳房を表現したもの、また腹部を大きくして妊娠した状態を示したもの、陰部を表現したものもある。
関東地方の草創期末に属する最古の土偶をはじめとして、早・前期の土偶は板状で、顔面・手先・脚などを表わすことなく、乳房を突出させている程度である。中期に入ってもなお板状の表現を脱しきれず、頭や手を短く突出させるものが多い。
しかし中空の土偶も登場しており、また顔・手足をつくったものも出現する。中期の土偶には手の指を三本にしたものがあり、これは同時期の土器に多くみる手と腕のみを表現したともみられるモチーフにも共通し、魔術的な表現と解釈される。
なお中期の大土偶には写実的な足をもつものがあり、これには五本の刻線を加えた結果、指が六本となったものがあることは、数についての認識程度を示すものとしても興味深い。後期になると、手足の表現をもたず、円筒状の胴部の上に斜め上を向く顔面を取り付けた筒形土偶が出現した。これに続いてもっぱら顔も手足も具わったものが普通となり、頸部が三角形をなすことによって山形土偶と呼ばれるもの、目や口をまるく表現することによってミミズク土偶と呼ばれるものなどがつくられた。中には耳飾りを付けたもの、ヒゲや入墨を表現したともみられるものがあり、これらは明治時代、日本石器時代人アイヌ人説の一論拠ともなった。晩期には東北地方の亀が岡式文化で中空土偶が大いに発達した。亀が岡式前半の土偶の目はレンズ状に大きく表わされている。これ極北民族の用いる雪メガネを表現したものとする解釈は過去のものとなったが、遮光器土偶の名は今日でも使われている。土偶はもっぱら東日本発達したが、東北地方ではこのほか石製品としての岩偶もつくられた。西日本では後晩期のみに土偶がみられる。後期の土偶には手足の表現を欠き分銅形を呈するものもある。近畿地方の晩期には粗製で、縦に貫孔をもつものがある。これを口から肛門までを表現したものとして消化器土偶と呼ぶ人もある。土偶にはその時期の土器に共通する文様を飾るのが一般である。このほか衣類とみられる表現をもつものもある。旧大陸における旧石器時代以来の動物表現には内臓を透視して表わしたとみられるものがあって、この種の表現はユーラシア・アメリカ・オーストラリア大陸にも、入れ墨を表わしたとみられるものが分布する。この解釈を土偶の文様にも当てはめる者もある。これは動物の生命をよみがえらせることを目的とした表現と解釈され、X光線(エクス・レイ)スタイルと呼ばれている。うずくまる姿勢の表現世界各地にあるが、後期の土偶にも若干例をみる。後晩期の土偶は、本来顔や手足を具えながら、完全なままで出土することはほとんどない。
これについては身体を煩った場合に、土偶のその部分を欠きとることによって身体の回復を祈ったのだとする解釈、また土偶はなんらかの役割を果たしたのち、破壊されるべき性質のものだったとする解釈がある。土偶が、住居内に埋めた土器の中や、炉の近くの穴、小石で囲んだ中、石組の中などに置いた状況で出土する実例があることとも関連する解釈であって、土偶が生命をもつものとしてつくられ、それが生命を失った際に埋葬したものとみるのである。土偶に妊娠の状態を示すもののあることは、世界農耕文化に広くみられる地母神信仰との関連を考えさせる。このことは縄文式時代に農耕が存在したと主張する人の論拠の一つともなっている。土偶は世界各地の先史時代にみられ、最古のものはヨーロッパの旧石器時代にまでさかのぼる。また材料を粘土に限らず石を材料とした像に関していえば、ユーラシア大陸の後期旧石器時代に広く分布がみられる。縄文式時代草創期にも扁平な礫に髪と乳房などを線刻で表現したとみられるものがある(愛媛県上黒岩洞穴)。
いっぽう農耕文化の土偶として興味深い一例を紹介すると、東ヨーロッパには粘土に麦の粒をたくさん混ぜてつくったものがある(青銅器時代トリポリエ文化)。これは麦の豊穣を願ったものと解釈されている。総じて世界先史時代の石偶・土偶には食糧採集民のものと、食糧生産民のものとが区別できるわけであって、縄文土偶は前者に属するものと考えられる。なお縄文式時代には動物を象った土偶もある。猪を写実的に表わしたものも土偶(青森県亀岡出土)ある。後晩期の東日本にみられるものであり、用途は明らかではない。(江坂輝弥『土偶』『日本原始美術』二)
中空の全身立像で、最大クラスに属します。
東北地方の晩期亀ヶ岡文化期に特徴的な「遮光器土偶」の典型的、かつ代表的なもの。「遮光器」とはエスキモーが用いた雪中遮光の器具(雪眼鏡)で、それを着けた状態に似た大きな目を表現しているところにその名が由来します。