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鶴田 純久の章 お話

京都の陶家高橋道八。宝暦年間(1751~164)の初代道八にはじまり代々共に妙工の名がある。
初代は名を高橋周平光重といい、松風亭空中と号した。伊勢国(三重県)亀山藩士高橋八郎太夫の次男で、宝暦年間京都に遊び三条粟田口で製陶を見て感動し、同地に寓居し陶器の業を始めた。竹木の彫刻をする一方、自ら雅遊を楽しみ常に池大雅上田余斉らと交遊し、南画を学び、自ら陶器をつくり着画し焼成した。作品には動物・人物置物が多く、また香合・酒器をつくり、池大雅ら諸氏との合作の器もある。1804年(文化元)没、63歳。二代道八は名を光時といい、松風・華中亭・法螺山人などと号した。父の業を継ぎ陶磁・楽焼の諸器をつくり、1811年(文化八)粟田から五条に移った。最も得意とするものは人物・動物・魚貝の類で、また古器を写す名手であった。画は狩野画風を学び、常に田中訥言・僧大含世続台翁らと交情が深く、互いに往復陶遊しまた合作した。42歳の時近江国(滋賀県)石山寺の座主密蔵院尊賢大僧正の仏弟子となり髪した。1812年(文化九)御室仁和寺の宮よ法橋の任官があった。製品の名手をもって特に同宮家の御意にかない仁の一字を賜わり、また仏法を信じ仏弟子となったので醍醐三宝院の宮より阿弥の号を賜わり、仁阿弥と称した。その後土師の姓を継ぐことを許され高橋法橋土師仁阿弥と号した。清水焼は陶器製のみで磁器製が少なかったが、仁阿弥は安南の墓焼を吹子窯より探求し、白磁・青花磁器の完全なものを創製して広く名声を高めた。技術が巧妙であったため諸侯や名士から格別の保護を受け、紀州徳川家・京都所司代間部家・二条城代大岡家・西本願寺門主信明院・粟田青蓮院宮家・大仏宮家・讃岐国(香川県)松平家・伏見奉行内藤家・薩摩国(鹿児島県)島津家・伊勢国(三重県)石川家・日光宮家などからしきりに用命を受けた。その中で紀州家・讃岐松平家・二条城・島津家京都岡崎屋敷などには特に招かれて製作した。1842年(天保一三)八月、あとを子の道三に譲り伏見の里桃山(京都市伏見区)に退隠、道翁と号し自ら小窯を構えて桃山焼と称した。道八の製造は諸種にわたるが最も動物を得意とし、狸に至っては実物に近い。1855年(安政二)五月没、73歳。三代道八は名を光英といい、華中亭と号した。二代道八の長男。幼名を道三といい、少年の頃から製陶を好み父に隠れて陶器を焼いた。父仁道阿弥がかつて紀州家の招きで紀伊国(和歌山県)に赴いた時、父と共に供に出て宇須女の香合をつくりに奉ったところ、父に劣らない作品であったので特に賞賜があった。16歳の時のことである。帰ってから父に隠れて自ら楽焼・半磁器・安南写しの香合の焼造を試みついに成功した。その後二年とたたぬうちに青花・白磁を焼くことができるようになり、また池大雅の門に入って南画を学んだ。また仁清作抹茶茶碗を見て感動し、その意に倣ってつくった。手づくりは父の作に従って、人物・動物・魚貝の作は父よりこまかく、最も得意とするのは青磁・雲鶴・三島・刷毛目などであった。天保(1830~144)末年篭形の諸器を創製した。また青花白抜画の釉の上下に濃淡のボカシをつくることを発明し、並びに諸釉の薬改良発明した。その間父同様諸侯名士の用命を受け、1832年(天保三)と1851年(嘉永四)の二度父と共に讃岐松平家に招かれ、1869年(明治二)には肥前有田に行き製陶法指導の任に当たった。1845年(弘化二)京都誓願寺が焼け本尊を焼失した時には、その灰で父と共に阿弥陀像を謹造した。1865年(慶応元)仁和寺の宮より法橋に任官され法橋道八と称した。1874年(明治七)家業を長男光頼に譲り、父同様桃山焼に従事し、1879年(同一二)八月69歳で没した。四代光頼は華中亭道八と号し、1845年(弘化二)生まれ。幼名を頼太郎といい、性質は温厚で鑑識にすぐれ、画は南宗派前田半田に学んだ。家法の釉薬を改良したり、また発明したことが少なくなかった。青花磁・彫刻・白磁などを最も得意とし、美術的に価値ある作品をつくりアメリカや各国の紳士・美術商に売り、仁阿弥以来諸家の御用調進を行なってきた伝統を継続した。1873年(明治六)京都府勧業御用掛に任命され、和漢洋の陶式を折衷し文房具・床飾・酒茶器の形を改良したり、また初めて石膏形を用い、その方法を五条坂の同業者に教え大いに賞賛された。以来博覧会審査員・京都府画学校御用掛・陶磁器商組合副組合長・京都美術工芸学校教授など各種の役員に選ばれ、また受賞回数は数え切れない程である。1897年(同三〇)八月没、53歳。五代英光が華中亭道八を襲号し業を継いだ。なお尾形周平は二代道八の実弟に当たる。(『守貞漫稿』『観古図説』『工芸鏡』『大日本窯業協会雑誌』六二『芸窓襍載』『有田磁業史』『讃岐陶器磁史稿』)※さんようどうはち

仁阿弥道八は奥田頴川の門下で、幕末の京焼の名工の一人とされます。
「吉野山の桜は雲かとぞ見え、竜田川の紅葉は錦の如し」の意を踏まえ、桜と紅葉を描いた色絵を雲錦手と呼んでいますが、これは道八が得意とした意匠であります。

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