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鶴田 純久の章 お話

瀬戸助という名は伊予(愛媛県)・江戸・京都・伊勢(三重県)・越前(福井県)・加賀(石川県)・越中(富山県)の各地に伝わる。
果たしてこれらのすべてが同一大物または同系統であるか否かは確言し難い。
ただ陶工として瀬戸助のような名は随所にあっても不思議ではなかろう。
(一)伊予の瀬戸助伊予松山藩主松平定行が1658年(万治元)退隠し、松山または勝山と号して東野の別荘を営み庭内に窯を築いたが、この時瀬戸から招かれた工大が瀬戸助でありました。
製作は多様で染付・青磁・御本・薩摩・朝鮮・伊部などの写しものに巧みで、茶器のほか石灯篭・鱒踪・景石をもつくりました。
瀬戸助焼・東野焼・松山御庭焼などと呼ばれ、「瀬戸助」「予州松山」「松山」などの刻銘を款しました。
ただし「松山」の銘は高山窯の陶工松山の用印であるともいい、「予州松山」の輪郭付き丸印は京都の陶工河合瑞豊の所作であります。
また「せ戸助」の印のあるものは伊予の瀬戸助の作であるかどうか不明。
1668年(寛文八)10月勝山公は八十二歳で没し、1678年(延宝六)には東野の別荘も取除きとなりました。
勝山没後の瀬戸助の行方については三説があります。
江戸に行って将軍家の焼物師となったとするもの、京都に上り製陶に従事し依然として「予州松山」の銘を用いたとするもの、金沢に移り久住守景と親しみその下絵のものを焼いたというものの三つであります。
なお伊予松山にはこの尾張の瀬戸助と系統を異にした永居瀬戸助という者かおり、尾張瀬戸助と同時代に東野の瓦師であった束本伊兵衛の孫六之丞が、永居瀬戸助を姓名として製陶に従事したといいます。
(二)江戸の瀬戸助1833年(天保四)の『武鑑』に「陶器御用西こんや町茶碗師瀬戸助」とみえます。
『観古図説』によれば瀬戸助は福井城下から移ってきて、のちに江戸徳川家の御茶碗師となり鍛冶橋外の西紺屋町に代々住んでいたといいます。
前記松山にも江戸に行ったとの伝説があるが真実かどうか、また『武鑑』にみえているのはその子孫であるのかどうか明らかではないようです。
(三)京都の瀬戸助前記伊予松山の伝説の一つに瀬戸助は京都に行き依然として「予州松山」の銘印を用いたとあります。
(四)伊勢の瀬戸助瀬戸の陶工で明和・安永(1764-81)の頃4日市に開窯しました。
(五)越中の瀬戸助モ一スの説であるが詳かでないようです。
(六)加賀の瀬戸助前記伊予松山の伝説の一つに、瀬戸助は金沢に移り久住守景と親しみその下絵のものを焼いたといいます。
(七)越前の瀬戸助『観古図説』に「元来瀬戸の大、福井城下に於て焼きたるが守景の画もありき、後江戸に出で徳川家の御茶碗師となる」とみえています。
(『当世武野俗談』『観古図説』『日本陶器目録』『工芸』一一『陶匠瀬戸助研究』)

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