波佐見焼 はさみやき

くらわんか
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鶴田 純久の章 お話
波佐見焼 くらわんか
波佐見焼 くらわんか

肥前国彼杵郡波佐見村(長崎県東彼杵郡波佐見町)産三ツ股・中尾・永尾・稗古場などの窯場を含み、いずれも大村藩に属した。三ツ股山はかつ高麗人が稗ノ尾に開窯したのに始まり、1605年(慶長一〇)本島久兵衛という者が登窯二十三間を築いた。その後寛文年間(1661~173)江戸の万屋藤九郎という者が製品の販売を請願したので、1665年(寛文五)藩はここに皿山役所を設け、各山の磁器製造業者に資金を貸与し大奨励した。中尾山については、かつて波佐見村井石郷(波佐見町井石)に元和年間(1615~24)高麗人祐慶が師となって永田皿山といわれた陶磁器窯を起こし、日用品の青磁釉・青花釉をつくったが、その後これが移転して中尾山に来たという。一説には1624年(寛永元)中尾山広川原に窯を築いた中尾庄右衛門尉という者が中尾山の陶祖であるという。次に永尾山は稗ノ尾山の分派と考えられ、1666年(寛文六)の創設であるがその開創者は明らかでない。さらに稗古場山の創業は寛文年間で、藩主の保護を得て陶器をつくった。当時の製品は呉須焼であったが、1682年(天和二)に至り磁器に改良し、以後年を経て焼を発明し、徳川家への献上品として重視された。以上波佐見焼は三川内窯(佐世保市三川内町)のような名物を出さなかったが、明治期になって実用品として発展し三川内より優勢を示すようになった。一八八九(明治二二)年度の産額は二万五千七百余円。(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『大日本産業事蹟』『日本近世窯業史』)

慶長年間(16世紀末)大村藩主が朝鮮出兵の際連れ帰った陶工によって開窯され、その後、大村藩の手厚い保護を受け栄えました。
良質の天草陶石にコバルト色の呉須下絵を染め付けた磁器で、全国の多くの家庭で愛用されています。

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