近江国彦根(滋賀県彦根市)の井伊侯の藩窯。も彦根に近い古沢村(同市古沢町)佐和山の麓にあったが、のち製造場を拡張して彦根柳町および石ヶ崎村(石ヶ崎町)をその地に入れた。継続期間は1842年(天保一三)9月から1862年(文久二)8月にわたる二十年余り。
【沿革】井伊家第十四代直亮が幕府大老職にあった時、時勢の奢侈と諸侯間の数寄を凝らした贈答に刺され、たまたま楽焼を好む寵臣小野田小一一郎により1842年(天保一三)9月古沢村の絹屋半兵衛の窯を上納させた。これを藩窯湖東焼の創起とする。その際尾張国(愛知県)より佐平・徳四郎・佐治右衛門、加賀国(石川県)より村井勘介・佐吉、京都より小林源六らの陶工や陶画工が招かれた。1845年(弘化二)優良な磁器を多量に焼成するため五間の丸窯を築き、また領内での売り捌きのために問屋の制を設けた。1850年(嘉永三)10月直亮は没し、同11月直弼が十五代を継いだ。直弼はすこぶる風流茶道に通じ湖東焼改良に長年心を砕いた。さらに丸窯を拡張したが損失がかさみ、1852年愛知郡下枝村(犬上郡豊郷村下枝)の豪商藤野四郎兵衛に経営の一切を委任。1854年(安政元)には損失一千五百両のまま四郎兵衛が退き、以来経営の存廃問題となること数回であったが、直弼の好陶がこれを廃止することを許さず、製器の向上をいっそう図り、また盛んに良工を招いた。1857年(同四)末には喜平・喜之介・佐平・甚吉・庄介・常介半六・松之介・市郎兵衛・市之丞市四郎・恒蔵・岸太郎・幸四郎・勘十郎・徳兵衛・太作・勘兵衛・辰次・金次・文左衛門・佐吉・信吉・庄太郎・介右衛門・光三郎・伝七・清介・文六・千介・勝蔵・尚次郎ら細工人二十名、絵師十五名、荒仕七名小供見習十三名、通計五十五名の職工を擁するに至った。1859年(同六)3月直弼より御手許金一千両が交付され、その他諸種の維持策が立てられたが、1860年(万延元)3月3日に直弼が難に遭って薨じ、湖東焼もまた非運に見舞われた。直弼の子直憲の代に至って職工が次第に離散し、1862年(文久二)突然十万石に減地を命じられると、たちまち廃止と決定された。
【製品】染付を主眼として陶器・青磁をも産出し赤絵をも焼付けた。また写し物は、原物入手が容易であったのと専門技術を有する陶工が多数いたため、青花・赤絵・呉州赤絵・青磁・織部・志野・高取・膳所・伊賀・古九谷・九谷・豊助・伊万里・仁清・乾山・安南・交趾・紫泥・雲鶴・高麗などの多様にわたった。直亮時代は特に錦手・金襴手の精巧絢爛なものが多く、幸斎や鳴鳳らが名手であった。直弼はこの業を自己の有とすると、まず物生山土の配合によって素地の青味を除くことに成功した。絵画模様は多岐にわたり百老・十六羅漢・竹林七賢人・蘭亭・赤壁・琴棋書画・四君子名花十友・玉堂富貴・松竹梅・山水花鳥・牛馬・孔雀・凰鳳・麒麟獅子・雲鶴・宝尽くしなど全体に中国の模倣が多い。他に湖東焼の一傾向として挙げるべきことは、直弼をはじめ藩内の文人韻士によって盛んに文人画が描かれたことである。
【銘款】直亮時代の銘は主として湖東の二字を用いたが、他に「淡海彦城」「金亀山東」「金亀城東」「金亀山製」などがある。これは彦根山を金亀山と称し、茶碗山がその東方に当たるところから出たものである。また単に湖の一字を書いたものもある。次に直弼は湖東焼の発揚を望み、銘を湖東の二字に一定して必ず記入させ、これ以外の銘と工人の名を用いることを禁じた。しかし無銘の品が多く、銘の存否によって製品の巧拙は決めにくい。またその文字も絵師および下役が書き、したがって書体はさまざまで、銘によって作者を判定することもできない。刻印には亀の輪郭内に湖東とあるもの大小二種(亀の形状は異なる)、二重小判内に隷書で湖東とあるもの大小二種、同じく行書のもの湖東岡東湖東製一種、および円内に湖東とあるもの一種、また1856年(安政三)直弼の命によって二重輪郭小判形に楷書で湖東としたものがある。なお写し物の中には九谷・角福銘・成化製・大清嘉慶年製としたものがある。以上藩窯湖東焼はその規模がはなはだ大きく、製器は独特の発達を遂げた。これは要するに茶事を好み、楽焼をつくり、絵画にも堪能であった直弼の非常な熱心によるもので、伝によると直弼は自ら一つ一つの製品に意匠を与え、または詳細な添削補筆をしたという。なお三代清水六兵衛・水越与三平・三代和気亀亭・永楽保全らも従事した。
【付記】以上は藩窯湖東焼の概略であるが、広義の湖東焼には藩窯の前に絹屋窯が、後に山口窯がある。直弼やその他の藩士による楽焼もある。ま赤水・床山・自然斎・賢友ら藩窯当時の民業赤絵がある。さらに敏満寺焼・久平焼・文助焼・亀七焼・円山湖東焼・北川焼・樋口焼・長浜湖東焼などの諸窯があって、それぞれ湖東の銘をしたものがあるから、湖東とあるのをもってただちに藩窯湖東焼の作とすることはできない。各項参照。(『湖東焼之研究』)