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鶴田 純久の章 お話

朝鮮で焼かれた一群のやきもの。その名の起原に蜜柑香合なまとコーチついては、暦手といわれる三島に点綴された線条文と密集した花文とを交じえた文様が、昔三島大社(静岡県)より頒布していた暦の相貌に類似しているためとするのが通説であるが、異説もあアマコウルソンる。田内梅軒は阿媽港(マカオ)呂宋(フィリピン)台湾の三島のものを総称して三島というと説くが、これはややこじつけ感がしないではない。また浅川伯教の説によれば、朝鮮では古来巨文島を三島と呼び、潮流の関係上中国やわが国の船舶がこの島に集まって付近産出の陶器を売買したので、この種の茶碗を三島と称したのであろうという。しかし三島の名称はわが国の茶人が命名したもので、通説のようにその模様からこの名を負ったものであろう。『利休百会記』『南都松屋茶会記』には、三島の名称は1586年(天正一四)頃よりみられる。当時は紹鷗以来佗び茶流行の初期で、従来の貴人茶用の中国天目茶碗はすた高麗茶碗に推移しつつある時代で、三島の慎ましい華麗と佗びの幽玄がようやく賞愛されるようになっていた。三島暦に似た文様には、小さい珠文を刻印して白泥を埋めたもの、さらにそれを簡易化して縦に彫り目を付け横に螺旋状に刻線を入れて白泥を埋めたもの、縄簾のような彫線を見込より放射状に刻しこれに白泥を埋めたものの三つがあって、いずれも細字を書き連ねたように見え、伝世の暦手にはこの三種がいずれもある。
これらは高麗青磁の象嵌手が変化したものであろうとされる。現在では三島という名称の内容はさらに拡大されて、高麗末期より李朝初期所産の白磁以外のやきものを総称するようになっている。
【三島の種類】古来茶人や骨董家は種々の特徴を捕えてさまざまな名称を付けた。技巧の方面からみて彫三島・釘彫三島・刷毛三島・絵三島など。
装飾面からみて花三島・檜垣三島・礼賓三島・角三島・渦三島など。時代による名称に古渡三島・朝鮮三島・天正渡など。土の色や斑紋などより御本三島・半使三島・堅手三島・伊羅保三島・黒三島・おもた三島など。そのほか伊奈三島・骨三島・三作三島などの名称がある(各項参照)。製作技巧面からいえばおよそ次の三つに分けることができよう。(一)印花模様の印を押しこれに化粧掛けを施してのち拭いとり、象嵌のような感じを出しこれに釉を施したもの。模様には印花の中に多少彫り交じえたのもある。(二)刷毛目化土を刷いたまま拭い去らずに残したもの。中に多少の印花が混じってはいるが装飾の大部分が刷毛目であるもの。(三)彫三島化粧土を施してその上を彫って地土を現わしたもの。
【三島の文様】文様のうちで最も多いのは縦の浪形で、長さ三センチ前後の浪形の印を縦に無数に押したもの。次いで縦の浪形つなぎ、輪つなぎで、これは高麗雲鶴の飛雲模様が転化したものであろう。次は菊の小さい印を押して小紋散らしとしたもの。そして雁木、武田菱のような四つ目模様、ハート形の猪の目模様、剣先模様など。そのほか竜鳳・蓮華唐草・浪形などは彫三島に自由自在に用いられている。しかし人物や動物の文様はほとんど見られない。生【三島の産地】1927年(昭和二)に朝鮮総督府で発掘調査した忠清南道公州郡鶏竜山窯の製品は暦手・刷毛三島・絵三島などであった。鶏竜山窯は『李朝実録』世宗地理志によれば磁器所で、その品等は中品とされたことがわかる。すなわち三島は世宗時代磁器と呼ばれ、鶏竜山の三島は当時中品だったのである。三島手を燔造した磁器所は地理志によれば八道百三十六ヵ所の多きに上っ三島芋頭水指三島銘白雲ている。そのうち学術的に発掘調査報告されたものは鶏竜山麓の窯跡のみであり、今後の調査研究が待たれる。この百三十六の磁器所のうち製品が最も精良で上品として推されたのは、京畿道の広州に一慶尚北道の高霊に一尚州に二、以上四ヵ所に留まっている。
【三島に現われた記号】三島の特徴として器皿には司号を入れたものが多い。これは官の命令によったものであるが、また文様の一部として取り扱われ装文化したもので、他に類をみない。『李朝実録』によれば、官物私蔵の弊害は年々甚大なものがあったので、太宗十七年(1417~、応永二四年)工曹の上議を用いて司号を刻させた。したがって若干の例外があるにしても、原則として司号を刻んだものは太宗十七年以降のものとみることができる。また三島手の製造が絶えてからは司号を刻した器皿はほとんどみることがなくなった。三島に文字を款した手法は大別して次の三つである。(一)白土を象嵌して文字を現わしたもの。黒土象嵌のものは極めてまれである。(二)鉄釉で文字を書いたもの。(三)器底に文字を陰刻し現わしたもの。そして三島の銘款に見える文字は官衙名と人名とその他とに三大別される。(1)官司の名号を入れたもの。内瞻寺あるいは略して内蟾の二字。〇内資寺あるいは略して内資の二字。または内資寺用の四字。礼賓寺または礼賓の二字、礼賓寺用の四字。長興庫これ地名を冠したものがあり、慶州・慶山・密陽・昌原・蔚山・礼安・海州・晋州・彦陽・星州・梁山などが知られている。これはその地の磁器所で造したことを示すもので各地幡造品の確実な標本である。ホ仁寿府まれに高霊・彦陽の地名を冠したものがある。徳寧府以上のほか司・内・仁・長・大などの一字銘のものもある。いずれも官署の略号と思われる。(2)人名を入れたもの。世宗三年(1421~、応永二八年)工曹の上啓を用いて、進上の器皿の底に造作匠の名を書か責任を取らせることとした。現在器皿の底に造作匠の名を刻銘したものはほとんど見られないが、墨書きしたものはたびたび見ることができる。(3)そのほか供字・戒・果・河河・三陟・殷皿・山・星州などの文字があるものがある。三島象嵌の文字には極めて判読し難いものがある。文字の画が崩れたもの、略されたもの、誤字もありまた逆となった字もある。書体にも階・行・隷が用いられ、ほとんど図案化されたものもある。文字を円あるいは直線で囲んだもの、囲まないものもある。文字の位置は器皿によって異なるが、文字の字数、三島の文様の調子に応じて技巧を凝らし、刻銘の文字は文様の一部と化している。
【わが国における三島の模作】釜山窯・対州窯ではわが国の陶工が多くの三島手をつくったが、九州でも古くから八代・現川・薩摩などでつくられた。萩・出雲・瀬戸にも三島の模作がある。文化・文政年代(1804~130)の京都では仁阿弥道八をはじめ多くの陶工によってつくられた。
近世においては京都を中心として至るところに三島の作があるが、三島写しの名工としてはおそらく諏訪蘇山が第一人者であろう。(『利休百会記』『南都松屋茶会記』『和漢茶誌』『鑑定記』『茶道正伝集』『万宝全書』『茶道筌蹄』『釜山窯ト対州窯』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』『陶磁』三ノ三『朝鮮三島の話』『鶏竜山麓陶窯趾調査報告』『朝鮮高麗古陶磁考』『朝鮮陶磁史文献考』)

粉青沙器印花(李朝15世紀)朝鮮の陶磁器で、濃い鼠色の素地土白い化粧土で覆った一群の半磁半陶質のものをいいます。
三島は高麗青磁象嵌手の変化したものと思われ、手法や形状からいろいろの名称が付けられています。彫三島・釘びり三島・刷毛目三島・絵三島・花三島・檜垣三島・礼賓三島・角三島・渦三島・御本三島・半使三島・堅手三島・伊羅保三島・黒三島・二作三島・三作三島などがあります。これらは技法的に分類すると三種に分けられ、印花・刷毛目・彫紋であります。
文様は暦手が最も多く、檜垣紋・印花紋・文字などがあります。高麗雲鶴青磁に見られる飛雲・鶴・丸紋(狂言袴)・雁木・波紋などもみうけられますが、人物動物紋は見られないようです。
産地は忠清南道公州郡鶏龍山窯のほか八道一三六ヶ所と伝えられます。
名称は暦手に点綴された線条紋と花紋とを交えた文様が三島大社(静岡県)より頒付していた暦に類似しているためとするのが通説となっています。
淡交社茶道辞典より
慶長の役後、渡来した韓国南部地方の陶工たちによって伝えられた技法を示すものに三島唐津があります。
三島唐津には象嵌・刷毛目・型紙刷毛目などがある、いずれも白土を使用する点が共通しています。
なお韓国では1万のことを粉青と呼んでいます。

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