幕府の医官曾谷伯庵(1630~、寛永七年没、62歳)の所持していた茶碗を本歌とし、その手のものを伯庵という。陶祖藤四郎の作であるといい、利休時代の黄瀬戸ともいい、あるいは朝鮮製と中国製ともいい、諸説入り乱れている。昔から伯庵の十誓といって十の約束がある。1枇杷色、②海鼠釉、⑧しみ、④高台片薄(半月形)、⑤高台ろくろ縮緬絞り、⑥轆轤目、⑦きらず土(素地が豆腐のきらず色)、茶溜まり(茶碗の内部の底)、⑨小貫入(茶碗全体に細いひび、すなわち貫入があること)、端反り(茶碗の口縁が外部に反り返っている)。以上のほかにさらに高台が竹の節であること、高台に飛釉があることの二点を加え、合わせて十二品という。さらに故老の秘伝というものによれば、茶碗を伏せて上から見ると高台が中心より横にはずれているとのこと。雲州松平家蔵の冬木伯庵はこの十三の約束をことごとく備えている。この手はまれで『古今名物類聚』には七種、『名物茶碗集』には七種、大阪戸田弥七家の万治元文年間(1658~1741)の手控えには十六種『茶器名物図彙』には十種、『大正名器鑑』には八種が載せられている。伯庵茶碗に関す諸説の一部を次にあげると、『茶盛茶怨目利書』『極秘目利書』に「曾谷伯庵家に有りし故、初て宗甫伯庵と名付くる。尾州瀬戸窯、三つの習あり、地枇杷色、熊川がた、高台より上にて土を見る、土細かにざんぐりと、土に見所あり、地薬の内に生海鼠といふものあり、口伝」、『譚海』に「古瀬戸の名器は伯庵と云ふ、至て稀なる物なり、古瀬戸焼の元祖也、井戸より価高きもの也、なまこ薬と称するを第一とす、薬の跡多く付たる程を極品とす」、「茶器目利集』に「伯庵、尾州瀬戸竈、曾谷伯庵家にある物、遠州伯庵と名付く。形熊川の様にて、高台作違、地薬薄玉子色、小貫乳あり、土荒き目、薄茶土和かなり、依て三つの習あり。
呑口片薄なり、但し片薄といふは呑口の外にS斉莊銘。
萩焼井戸形茶碗そぎたる様の形あり。呑口の内の方にてそぎたる様なる形あり、尤も箆目に長短有之。高台片薄あり、高台の内に飛込と云ふことあり。右の薬高台の内、大小二つ三つあり、一つ飛込たるもあり芥子飛込薬あり。証拠とする三つの習、一つにてもかけたるは伯庵に非ず。外に生海鼠薬と申す物あり、是は内にも外にもあり、極まらず。
生海鼠ある賞翫す、無之は位落る。四つの習揃ふ伯庵は、価五百両。藤四郎作、曾谷伯庵、遠州時代に六つ所持の由」、『和漢名器便覧』に「伯庵、黄瀬戸也曾谷伯庵家より出でたる故名付くる。黄飴薬濃枇杷色、腰に生海鼠薬あり、飛薬、高台の内に、内外轆轤目端反り茶溜りあり、惣体にあり、高台竹の節片薄、是を約束揃ひたりと云ひ賞翫す」、「目利草』に「伯庵、一説に瀬戸の伯庵は藤四郎作なりといふ、黄瀬戸なり、茶碗七契あり。なまこ薬、飛薬、白土、枇杷色、香台の竹の節、片薄茶溜」、『本朝陶器攷証』に「伯庵、藤四郎作といふ、上作にて高麗物の如し、惣体薬黄色にて、出来よく、鼠色にもなる。生海鼠薬あり、是の沢山なるを賞翫す。土白み赤みなるもあり、高台片薄なり、茶碗の真中より少し脇へよるを、伯庵約束といふ。高台の内へも生海鼠飛出しをよしと云ふ、又生海鼠薬なき伯庵もあり、作ある伯庵至て多し、今稲葉丹後守殿に、曾谷の所持ありて、則ち本家と云ふ」、『茶器名物図彙』に「伯庵といふ茶碗は、利休時代の黄瀬戸焼にし其時代より古き作は無之、形大抵皆同じ、少づつの大小はあり、当世の風にあはざるものなり、是は曾谷伯庵といへる人、江戸市中にて取出し、その頃遠州公在世にて見て貰ひ、銘を所望被」申、則其儘名をとりて伯庵と付らる、取合せに面白茶碗なりとて、数寄人尋ね需出し、堺よりも多く出たりとなん。右曾谷氏江府の医臣にて、今は曾谷伯安とて連綿とあり、右伯庵の茶碗は、後稲葉公へ伝へたり、是本歌なりと言伝ふ」、「茶道筌蹄』に「伯庵、伊勢津の医師曾谷伯庵所持なりし故、伯庵と云ふ。淀侯御所持なり、半月香台飛薬」、『戸田手控』に「伯庵、勢州津伯庵の家より宗左買取り、稲葉丹後守殿御所持となる、右は曾伯庵の所持、遠州御覧になり、則ち伯庵と書付被成し茶碗是なり云々」、「伏見屋手控』に「伯庵、尾州瀬戸窯、江戸西ヶ久保に曾谷伯庵と申御住所持を、小堀遠州公御覧被」成、則名付申候」、『工芸志料』に「第二世藤四郎某の造る所の黄瀬戸茶碗に、伯庵と名付くるものあり。寛永年間幕府の医員曾谷伯庵と云ふ者あり、之を珍蔵す、故に時人之を賞称して伯庵といふ。而して其の類似品も亦伯庵と名付け、遂に茶碗のみならず、他の器物に至るまで、同時の作を総称して伯庵といふ。曾谷伯庵の蔵せし所の者は、伯庵之を相模の小田原の城主稲葉氏に伝ふ。稲葉氏累世之を蔵せしも、今は商人某の有となれり」、『茶器便覧』に「黄瀬戸伯庵、伯庵は利休の弟子にて医師なり、数寄者なり、或日利休茶碗を所望する所に、折節面白き物もなく、黄瀬戸茶碗一つを取出し送りぬ、伯庵之を甚だ秘蔵して、生涯との茶碗一つを遣ふ、依て此茶碗を伯庵と云ふ、今は稲葉丹州公にあり、伯庵は此一つに限る」、文禄四年(1595)七月十五日の奥書のある『別所吉兵衛一子相伝書』当時之作者の条に「宗伯、本武州川越の人近年京都に上り耳付茶入を焼茶入より茶碗多し、武州にては伯庵と云」とあり、伯庵自身も茶碗をつくったとしている。『陶器考付録』に「俗に黄瀬戸の伯庵とて、素谷伯庵作と云ふは非なり。伯怨は唐の時代(凡千年余)越州の作にて、黄瓷楹と伯庵銘瀬戸伯庵伯庵本歌云ふ、函谷関より東にて伯霊と云ふ、霊は怨なりと陶説に出づ。素谷伯庵唐物の伯器を所持するにより、混じて黄瀬戸の伯庵と云ひ間違たるものならん、瀬戸にても此形を写したるなるべし、本物は大家に蔵めて見ることならざる故、本物を見る人少き故なり。瀬戸出来は伯盔写黄瀬戸と云ふてよし」、『遠碧軒』に「伯庵手と云ふは、藤四郎やきの茶碗なり、くわんにうも白地に黄ぐすりのはめなだれなど云もあり、これは藤四郎入道して白庵と云てからやきを模したるものを云ふ、藤四郎は東山殿の代の人なり」、「大正名器鑑』に「此茶碗は諸茶書に初代藤四郎作と為したるもあれど草間和楽の『茶器名物図彙』には利休時代の黄瀬戸なりと記せり、蓋し前説は古きに過ぎ後説は新らしきに過ぎ共に首肯する能はず、彼の二代目藤四郎作といへる面取手茶入などに頗る類似点多きを見れば或は此頃の産物なるべきか云々」。なお『日本陶瓷史』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』は中国産であるという説をとり、『陶磁』二巻二号で原文次郎は朝鮮説をとって論じている。さて伯庵の本歌は曾谷伯庵ののち稲葉丹後守、江戸深川(江東区)鹿島屋清左衛門を経て、1907年(明治四O)井上家に入り、1925年(大正一四)同家入札の時三万六千円で名古屋関戸守彦家に落札し『大正名器鑑』にはこれを実際に見て次のように記している。「薄作にて口縁少しく端反り、外部一面浅き轆轤目繞り、胴体に横一寸五分、縦七八分なる伯庵特有の丹礬釉掛り、高台廻り土を見せ其縁所謂片薄にて、一方極めて細く、高台内外に掛りて黄釉の飛びあり、而して底中央稍突出体光沢ある黄釉にして、青味赭味相錯綜し、又口縁に茶渋の如き浸み模様数ヶ所あり、内部は見込稍深く陥ち込み、茶溜を挟みて箆目相対す、口縁より胴体にかけて長短二本の竪樋あり、総体精作にして、推してこの種茶碗中の巨擘と為「すべし」と。※そうはく