久富与次兵衛 ひさとみよじべえ

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鶴田 純久の章 お話

肥前有田中の原(佐賀県西松浦郡有田町中の原)の人。1842年(天保一三)公許を得て長崎でオランダ貿易を開始、稗古場窯・上南川原樋口窯などの製品をその品目とした。五、六年後には巨万の輸出をなしたといわれる。与次兵衛は点茶を好み、蔵春亭と号した。また古器の鑑識に長じ、自ら器物の形状や絵文の意匠を授けて広く工人の技巧の指導をした。また平戸および五島に産する釉料を採掘し、施釉の煩わしさを省くことを研究・実施したが、藩より素地を脆弱にするという理由で使用を禁止された。その子三保が与次兵衛を襲名。(『工芸志料』『日本陶磁器史論』『日本近世窯業史』『有田磁業史』)

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