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鶴田 純久の章 お話

朝鮮釜山窯の陶工中庭茂山。一説に茂三、初姓阿比留。対馬の国府の在廻村(長崎県下県郡豊玉村廻)の人で、寿閑と称した。年少の頃国主義成に召し出され茶道役吉村紹林に付属し、のち船橋玄悦らの誘掖により一層茶道および器物の知識を深めた。1664年(寛文四)玄悦が没すると翌年そのあとを襲い幡師として釜山に渡った。これが茂山が陶業に携わる第一歩であった。1669年(同九)1672年(同一二)1676年(延宝四)1678年(同六)・1681年(同九)1685年(貞享二)の数回にわたって釜山に赴き、その間1678年には移転後の新和館に自ら指揮して新窯を築造した。茂山が往復した二十一年間は実に釜山窯の最盛期に当たっていろくろる。茂山は70歳近くで釜山の窯を宮川道二に引き継ぎ国府に帰って老を養っていたが、1694年(元禄七)八月病没した。その作品は大体質がざんぐりとして軽く薄手のものが多く、ことに茶碗・鉢などに秀作があり、内面はゆったりとして丸やかな感じがする。とりわけ砂手御本のものは自然で従順な強さと冴えた轆轤の痕が見られる。
また呉須の染付を淡々と施したもの、染付の南京写し、青蕎麦の釉下に白の象嵌をしたもの、絵御本・三島・刷毛目・青磁・灰色釉などのものがあるが、品種はすべて抹茶器である。模様が簡単なこともその特徴の一つである。1893年(明治二六)その二百回忌に当たり茂山の作として陳列されたものは葵紋付御本手・点茶碗・葵紋付香炉・薄青色三足香炉・水差・青竹蓋置・白手茶碗・白手蘭画茶碗・白手水差・縄素垂水差・白手割高台・白手丁子風炉・雲鶴写しなど。(「陶器考付録』『茶道筌蹄』『釜山窯ト対州窯』)

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