琉球(沖縄県)八重山群島石垣島の陶器。島人の石垣という者がまず沖縄本島那覇に赴いて陶法を伝習し、1724年(享保九)十一月国命を受けた泉崎の仲村渠致元を伴って帰った。致元は島人を指導して山田平で製陶を始め、1726年(同一一)その製品を主に送り、六月那覇に帰り国主より賞を受けた。ただし瓦の製出はこれよりも古く、名蔵ですでに製出していた。製陶場はこれ壺屋と呼び、泡盛壺・水壺を主製品とし兼ねて瓦を製造した瓦は赤瓦で、牝瓦と牡瓦とを組み合わせるものである。また壺には酎壺や耳壺などの種類があっていずれも小形で、前者は口は小さくて胴が大きく、後者は口が大きくて懸吊に便利なように耳がある。大きい壺を甕といい、味噌甕・酒甕・水甕などがある。致元が始めた陶業は一時中絶したという。近年の陶業はその再興であろう。新城島でも早くから素焼の赤があってこれを石垣島に伝えたと見えるので、その時再興したものであろうかとも考えられる。この地の甕土粘力を与えるために蝸牛を臼で搗いて混ぜるのは、奇抜独特の工夫というべきであろう。燃料は藷蔓灌木の枝など。後年石垣島の地域に施釉の地城飯碗が製出された。しかし沖縄本島の上等品圧倒されて近年では瓦のみをつくる。(『沖縄陶業』『琉球の陶業』)