大名物。漢作茄子茶入。
付藻はまた江沢藻・江浦草・作物などの字を当てます。
別名松永茄子・九十九髪。
『総見記』所載の相国寺惟高和尚の記文に、「鹿苑相公(足利義満)、内野の戦場に向ふ時、金甲の裏にこれを繋けて身に随ぶ。
その御愛保重せられしこと知るべし。
近来、慈照相公(足利義政)これをもって呑くも山名礼部(山名政豊)に賜ふ。
その男色をもって寵幸せられしが故なり」また「逓代の大樹、十たび襲ひてこれを秘寵す。
扱際たる賤輩介爾、倫眼するを得ざるなり」とあります。
足利将軍の十代の代々が襲蔵したとありますので、尊氏以来義植まで足利将軍家の珍什でありました。
室町時代末期の戦乱に際しこの茶入もいつしか人手に渡り、古道具屋の店頭にあったのを珠光が九十九貫で買い求め、『伊勢物語』の古歌「百年に一年足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」の意から九十九髪の銘を付けた。
九十九貫を九十九髪になぞらえ、そのつくもがみを略して単につくも茄子といいます。
のち三好宗三に伝わり、さらに越前国(福井県)の朝倉太郎左衛門から同国府中の小袖屋某に伝わりましたが、戦乱の際の万一を思ってこれを京都の袋屋某に預けておき、人には1536年(天文五)の法華宗の乱で焼失したと偽って秘蔵していました。
ところが1558年(永禄元)春、松永久秀が計略を用いてこれを取り出して自分のものとし、非常に喜んでしばしば茶会に使用したということが『宗及茶湯日記』にみえます。
のち1568年(永禄一一)11月に織田信長が入洛し天下の大勢が信長に帰するのをみて、久秀は仕方なくこの秘蔵の茄子を信長に献上して御機嫌をとつた。
信長の没後豊臣秀吉の所有となり大阪城の宝庫に納められていましたが、1615年(元和元)の落城の際この茶器を納めてある庫も焼け落ちてしまりました。
そこで本多正純は徳川家康に勧めて、藤重藤厳・同藤元父子に命じ焼跡の中から名物茶入を探し出させました。
この時この茄子も発見され、ひどく破損していたが藤重父子は丹念に漆で修繕して原形に戻し、釉の色もほとんど元の色に近いものにつくり直しました。
家康はその褒美としてこの茶入と松本茄子とを藤重父子に与え、以来藤重家の秘宝でありましたが、1876年(明治九)頃に家計が苦しいため当時新興の富豪として知られた岩崎弥之助に売却し、以後同家に伝わりました。
(『津田宗及茶湯日記』『天正名物記』『茶器名物集』『山上宗二記』『東山御物内別帳』『松屋日記』『総見記』『重編応仁記』『太閤記』『長闇堂記』『茶伝記録』『茶事談』『万宝全書』『大正名器鑑』)
和名「付藻茄子」(つくもなす)という中国で出来た茶入が有りましたが。日本に渡り足利義満が所有していましたが、その愛蔵ぶりは度が過ぎていて、戦場に行く時も肌身離さないで鎧びつの中に特別の収納場所を作って戦におもむくほどでしました。
その後、これを茶人「珠光」が買い、「朝倉太郎左衛門」から「松永弾正」に渡り、さらに時の権力者「織田信長」の機嫌とるために弾正から信長に献上され信長が茶会にしばしば使った記録があります。
安土城から本能寺に持ち込まれて、おそらくはこの茶入を主役とした茶会が開催されたと思われますが、その終了数時間後に「明智光秀」乱入の変の合い本能寺が焼け落ちたときは、かろうじて何者かが持ち出したため、なぜか無事であったようです。
変事の後、茶入は「豊臣秀吉」が所有する所となり、後に「徳川秀頼」に渡りましたが、元和元年、「徳川家康」に攻められて大阪城の宝庫と共に焼けました。
家康は灰の中を探させ、いくつかの名器を探し出して見事に修復した「藤重藤元」にこの茶入を与えました。
この頃の茶入の価値感は、「石田光成」拳兵の報を受けて家康が兵を西に返した時、側近の某が今度の大阪攻めでは茶入の名品が沢山手に入りましょうから、軍功をたてたらそのうちのひとつを拝領したい、と申し出たという言い伝えからも、領地同様の価値観があったと思われます。
この「付藻茄子」(つくもなす)は、徳川家康よりの拝領とあって、江戸時代の間は藤重家から外には出る事もありませんでしたが、明治九年四百円で岩崎家に入り、現在、静嘉堂に伝わっています。
室町時代以来、動乱に世のほとんどの政治経済の実力者の寵愛をほしいままにし、歴史的戦火をかいくぐって生き残った名器であります。