会津焼 あいずやき

会津焼大甕
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鶴田 純久の章 お話
会津焼大甕
会津焼大甕

福島県大沼郡本郷町(会津若松市の近く)を中心として産し、本郷焼ともいわれ、陶器から起こって磁器に進んだもの。
【陶器】美濃国(岐阜県)の水野源左衛門成治が岩代国長沼(福島県岩瀬郡長沼町)に来てやきものをつくり、のち本郷村(本郷町)に移住しましたが、1647年(正保四)2月藩主松平(保科家)正之より三人扶持を給せられて焼物御用を命ぜられた。これが本郷村における陶器製造のはじめでありまた会津焼の端緒であります。製品は茶器を主としてわずかに実用品をじえています。同年11月29日源左衛門没。翌年(慶安元)その実弟長兵衛成長が長沼にいたのを招いて兄の跡を相続させた。長兵衛は石灰焼成・耐寒赤瓦焼成などの功によって扶持を加増され、石灰役を本職とし瀬戸方を兼ね、代々瀬戸右衛門を称する恩命を蒙った。作品のうち最も有名なものは、青茶に薄墨少々を引いた色の釉を施した丸形の濃茶碗に紋を染付けたもので、茶碗の称を得て珍賞され藩主から他家への贈進物となりました。1660年(万治三)3月3日没。三代目瀬戸右衛門成紀は1679年(延宝七)江戸の高原平兵衛の工場すなわち将軍家御用の高原焼で技術を伝習した。1692年(元禄五)7月20日没。四代目瀬戸右衛門は1747年(延享四)4月18日没、七十八歳。五代目瀬戸右衛門成房は1770年(明和七)2月16日没。五代目までの作は世間に古本郷の名で知られています。六代目瀬戸右衛門成正は1826年(文政九)8月20日没、七十七歳。会津焼磁器の端緒はこの代に当たる。七代目瀬戸右衛門成栄は1870年(明治三)帰農して隠居し名を瀬戸一と改めた。1877年(同一〇)旧7月12日没、七十六歳。八代目成時は、廃藩と共に瀬戸右衛門の通称を一旦中絶されて瀬戸次と改めたが、1878年(同一一)県庁に請い改めて瀬戸右衛門の旧称に復した。1893年(同二六)旧3月10日没、七十二歳。九代目はその子多門。以上を陶器の本系とする。
【磁器】寛政年間(1789~1801)新たに磁器の一派が起こった。創業者佐藤伊兵衛は安永年間(1772~81)より白磁の製造を思い立ち、1797年(寛政九)9月11日故郷を発し志戸呂・常滑・瀬戸・信楽・清水・粟田・志度・有田・萩・伊部などの諸窯を遍歴して技法を探ること満一年、翌年8月会津に帰った。そして1800年(同一二)4月肥前皿山風の窯を築き同10月初めて白磁を出すなわち白磁を志して二十三年後に成功をみた。門弟は数十人に達し川南村(北会津郡北会津村)にも磁法が伝わった。1842年(天保一三)10月14日没、八十一歳。二代目陶吾は号を陶一といい1871年(明治四)旧正月16日没、七十二歳。三代目陶一は号家一、1878年(同一一)10月24日没、五十五歳。
四代目はその子唯七。なお伊兵衛門下の手代木幸右衛門は責焚きの工夫を見出して磁器の焼成法を完成。1863年(文久三)には若松藩士斎藤伊織が本郷に来て会津焼の画風を一変した。会津焼の製品は明治以後は急須・土瓶などの袋物が発達し肥前三川内風を伝えた精品を出しましたが、その中頃から電気用碍子類に転じ一般に工業的生産に傾いた。会津磁器の原料は石英粗面岩質のものが多く、その窯式や窯詰法は尾張(愛知県)および肥前(佐賀・長崎県)の諸法を折衷した特殊な会津式であります。また焼成はすべて素焼を施さないのがその特色。(『福島県之窯業』『日本近世窯業史』)


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