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鶴田 純久の章 お話
保全 ほぜん
保全 ほぜん

京都の名工永楽保全。
十代善五郎了全の養子で西村家十一代を継いでします。
初め善五郎、のち善一郎と改め、その後永楽を姓としました。
紀州徳川家下賜の永楽印によったものであります。
「伝記」1795年(寛政七、一説に1785、天明五年)に京都の沢井宗海の子として生まれ、幼時に事情があって大徳寺黄梅院の仏弟子となりました。
しかし天性玩土の癖があるようで、観経を事とせず、ついに大綱和尚の紹介で僧籍を脱し、千家十職中の土風炉師西村了全に子がなかったためその養子となりました。
十一、二歳ですでに普通の陶技に習熟し、十四、五歳の時伏見街道の大形屋市右衛門についてその技を研修して才能をいよいよ発揮し、壮年になると中国・朝鮮などの陶磁製作の奥義を究め、模写も思うままでありました。
かたわら書道は松波流を習得し、画は狩野永岳に、和歌は香川景恒に学び、禅は大綱和尚に参じ、舎密究理の術は医家新宮涼庭・日野鼎斎・安藤桂州・広瀬玄恭らについて学んです。
当時都下で一芸一能ある者には交友を求め、その技を練りました。
技巧は大いに進み磁器の染め付け・金欄手をも製出し、早くも名工の域に達しました。
1827年(文政一〇)紀州の徳川治宝がその名声を聞き、西浜御殿に開窯させもつぱら交趾写しその他の磁器を焼成させ、これに偕楽園製と命名しました。
治宝はたいそう保全の技を褒め、彼に永楽二字の銀印および河浜支流の四字金印(裏に西園の二字を加える)を賞賜しました。
また京都では近衛家・鷹司家の殊遇を蒙り、特に鷹司家からは「陶釣軒」の三字を賞賜されました。
そのほか彦根藩の湖東焼(滋賀県彦根市)、膳所藩の雀ヶ谷窯(滋賀県大津市)などに招聘されておのおのその手腕を示し、高槻(大阪府高槻市)の永井侯よりも新窯築造の嘱命を受け、さらに京都の三井家、大阪の鴻池家の寵遇をも得、ことに三井一族などは秘蔵の重器を開放し、また当主三井高就(牧山)に招かれしばしばこれと合作の器を出しました。
このようにして保全の陶技はいよいよその頂上に達し、染め付け・金欄手・交趾写し・青磁などから焼締物に至るまで中国・朝鮮・安南諸器の模作がすべて可能で、紫・黄・赤・青・緑の彩釉も非常にあでやかで、名声は世に鳴り朝野の寵答一身に集まるという状態でありました。
保全の進歩開発の念はこれでも満足せず、さらに均窯系紅紫色彩釉(辰砂手)の研究に没頭し、私財をなげうってその達成に熱中しました。
当時幕府の忌譚を受けた高野長英を家に招いたのもそのためであって、その熱心ぶりはほとんど家事を顧みることがなかった程であります。
加えて時世は騒然の気運にあり保全の家道は急に衰え、1849年(嘉永二)ついに武部了幽らの手により家制改革のやむなきに立ち至りました。
すなわち家督を子和全に譲り、自らは家を出て隠居し、四方流寓の悲運に遭りました。
翌年膳所本多侯を頼り江戸開窯のことを企て、同11月某日江戸へ向けて出奔しました。
しかし画策は思うように行かず1851年(嘉永四)5月再び西帰しました。
この頃近江国(滋賀県)大津の円満院の侍小泉義嶺という者かおり、保全の失意を深く慾み保全を大津に招き、円満院御用窯として製陶のことを計画しました。
すなわち新たに窯を築き同年冬頃初窯を出しました。
世にこれを湖南焼といいます。
保全は晩年円熟した陶技をことごとくこの窯に傾け四年間経営しましたが、1854年(嘉永七)晩夏頃より背部に瘍を発し、その年の9月18日ついに没しました。
六十歳。
実子和全・養子西村宗三郎(回全)がいます。
【製作】作品は非常に多方面にわたり、金欄手はもちろん祥瑞・呉須・交趾の三彩より万暦の赤絵・南蛮の焼締・雲鶴・三島などのような輸入陶器の主なものすべてに通じ、他面光悦・楽・仁清・乾山らの写しにも巧みでありました。
保全は明代永楽年間(1403-24)の青花白磁に心を潜め、その名永楽もこれによると伝えるように染め付けを最も得意とし、とりわけ祥瑞写しに妙技を発揮し、次に交趾写しもまた有名で、偕楽園焼では多くその技を振っています。
さらに金欄手は永楽金欄手と呼ばれるように巧みで、その子和全もこれの模倣に努めました。
そして品種に至っては茶器より日用の火入・皿・鉢・小鉢・土瓶・徳利・盃類に及び、花瓶・香炉・置物などの装飾品まであらゆる方面にわたっています。
また茶器のうちには抹茶器の茶碗・水指・建水・蓋置、煎茶の急須・茶碗・涼炉などの種類があります。
この製作の多様性は保全の一特徴で、融通自在の技能の表明であります。
そしてこの点では仁阿弥道八と一脈通じますが、道八が彫刻の素養があって箆をもってその特技とするのに比べ、保全はこれがなくもっぱら絵付の筆をもって落ちを取ろうとしました。
しかも多く中国の製品を模倣してこれより一歩を抜こうと工夫し、自ら銘して大日本永楽造としたのは、仁清の日本趣味を継ぐものと評されます。
銘款は所掲のように非常に多いようです。
そのうち紀州家下賜永楽二字銀印は治宝公の旨によって養父了全との共用であります。
また「以陶世鳴」の書銘は、1850年(嘉永三)秋に保全が江戸行きを前にして一品中書王有栖川宮熾仁親王より賜った御染筆にとったもので、湖南窯開設後、売品以外の製品にこれを用いました。
(『観古図説』『工芸鏡』『彩壺会講演録』『湖東焼之研究』『陶磁』三ノ四・三ノ六)※えいらく※こなんやき

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