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利休尻膨

利休尻膨(りきゅうしりぶくら)

唐物 大名物 侯爵 細川護立氏 蔵

名称
千利休が所持していた尻膨(しりぶくら)茶入である。小枝略翁の『茶事集覧』に「利休は丸壺は嫌いで、尻膨を好まれた。所持の『えりぶくら』が二つある」とある。『茶道正伝集』には「尻膨の茶入は、茄子の茶入の形の悪いものを尻膨と言う。月山が『長茄子』と言って、茄子の絵に名物があるが、尻膨の長茄子のようであったと心得よと言い伝えられている。ただし尻膨は盆付(底)が平らなものがある」とある。

寸法
高さ 約6.1cm (2寸)
胴径(帯の部分で 約6.4cm (2寸1分)、尻の部分で 約6.7cm (2寸2分))
口径 約2.7cm (9分)
底径 約2.7cm (9分)
甑(こしき:首の部分)の高さ 約0.3cm (1分)
肩幅 約0.5cm (1分8厘)
重量 約71.3g (19匁)

附属物
・蓋 1枚 無地(窠なし)
・御物袋 萌黄紫の縮緬(ちりめん)の寝巻き(包み裂)、今紫の緞紗(どんさ)
・袋 3つ
上代広東(裏地は玉虫色、結び紐は茶色)
糸錦(裏地は玉虫色、結び紐は紫色)
中古縞広東(裏地は玉虫色、結び紐は紫色)
・袋箱 桐 書付は細川三斎(忠興)
「利休ゑりぬくら 袋 三」
・挽家(ひきや:茶入を納める筒)黒塗 甲(上部)は大きく面取りされている
袋 燻べ革(ふすべがわ)紐は萌黄色の四丸打ち
・中箱 桐 白木 書付は細川三斎
「利休 尻ぬくら」
・上箱 厚い革製
・大外箱 張甲 かぶせ蓋 錠前付き
・茶入の目録 1通
覚書
一、利休の尻膨の御茶入
蓋 象牙 1つ
一、紫ちりめん 寝巻き(包み裂)
一、挽家 黒塗 革袋に入る
一、上箱 桐
御書付 三斎様(細川忠興)の御筆
上の包み 浅黄色の袱紗
一、袋 3つ
内側

一、1つ 糸錦
一、1つ 嶋間道
一、1つ 上代嶋間道
右は別箱に入れる
正徳6年(1716年)
未の年10月22日 改める

一、添状 1通
御茶入の寝巻き(包み裂)が湿気を帯びており、挽家から出し入れする際にきしみ、非常に危うい状態でした。そのため用人衆にお伺いを立て、紫の袱紗で包むことといたしました。それ以前の寝巻きは御茶入の箱の中、挽家の上に入れておきました。
天保2年(1831年)9月
山田
菅野
財津殿、埴野殿、井上殿 宛て

雑記
尻膨(しりぶくら)
昔からこの名がある。「月山」の茄子の絵を見ると、私の茄子は尻膨に似ている。かの壺を作った者は茄子をかたどったのであるから、私の茄子もまたかたどるべきであるが、日本に渡ってきてからは、この長茄子は下劣とされ「尻膨」と呼ばれている。昔、能阿弥や相阿弥は皆、「小壺は茄子の形を知ることが肝要であり、少しでも違えば茄子ではない」などと言った。そのため、後の数寄者(茶人)たちは尻膨を手に入れるべきではないとし、価格を論じた。正真正銘の茄子は高価で百貫、後に五百貫となった。近年はさらに値上がりし、奈良の小茄子は二千貫とも言われている。
(伝相阿弥自記『東山殿飾之記茶器名物図彙』より)

尻膨 小壺であり、町屋の店にあり、その数は知れない。これらの小壺の中には、昔は五百貫や三百貫の代物になる名物もあったが、今の世では持ち主が遠ざかっている(あまり珍重されない)ものである。いずれも四方盆に載せるものである。
(『山上宗二記』より)

利休尻膨 唐物である。長谷川文琳、志野丸壺、吹上文琳と同時代のものである。これを新田(肩衝)、勢高不動と比較すると、釉薬の掛かり具合は同時代といえるが、時代(古さ・風格)は劣る。伊木(肩衝)、青木(肩衝)、本能寺文琳、富士山肩衝と同格である。
(不昧公著『瀬戸陶器濫觴』より)

尻ぶくら茶入 唐物である。『名物記』に記載があり、「利休尻ぶくら」と言う。のちに細川三斎公(忠興)が所持し、今は肥後(熊本)にある。
(『草間本利休居士百会茶之記』より)

唐物尻膨 これは裾が膨らんでいることから名付けられた。土は薄赤く、口の折り返しは卑しい(乱雑な)作りである。自然に華奢なところもあり、糸切りは荒目に見える。下地の釉薬は少し赤みのある飴釉で、上掛けの釉薬は濃い飴色で少し高く見える。下地の釉薬の中に指の跡である「火間(ひま:釉薬が掛かっていない部分)」がある。火間というのは、茶入を作り、釉薬を掛ける際に持った指の跡であり、そのため手の筋がはっきりと見えるのである。また、自然に火間ができる茶入もあり、窯の中で釉薬が溶けきらずに火間となることもある。この火間には必ず水釉(薄い釉薬)が掛かっているものである。この茶入の下地の釉薬には黒い鶉(うずら)斑がある。藤四郎の焼き物でこの様子があるものを「根抜(ねぬけ)」と言う。肩衝の項目に詳しい。(茶入の図あり)
(『万宝全書』『茶器弁玉集』より)

ある時、今日庵主(千宗旦)が宗佐(随流)に語ったところによると、宗易(利休)は尻膨の茶入を好んで二つまで所持していた。一つは三斎(細川忠興)に差し上げ、もう一つは私の家に伝えられたが、私が若い頃に病気になり生活に困窮したため、姪の九兵衛にその茶入を代わりにやってお金を工面させた。しかし、そのまま買い戻さず、先方ではそのような名物とも知らずに埋もれさせてしまったのだろう。茶入は飴釉一色のものであったと言われている。
(『茶話指月集』より)

利休尻膨 二つある。一つは千宗左から伝わり、今は桑名にある(異本では「今は宗不に来る」とある)。もう一つは千宗安から伝わり、上田宗五の所持。
(『千家中興名物録』より)

尻膨 宗信が言うには、この尻膨は昔、細川三斎公が持っていたと不審庵の書にあるとのこと。おそらく古瀬戸であろうと言う。慶長18年(1613年)の土門久好の覚え書きに、少庵の茶入「尻ふくら」は利休が所持していたものとある。もっとも、利休はいくつも所持していたのかもしれない。
(閑事庵宗信著『利休百会解』より)

集雲庵の覚書に、野がけ(野点)や狩り場などで茶会を催すことがある。宗易(利休)が大善寺山で御茶を差し上げた際、私もお供をして、よくよくその作法を見た。利休居士がおっしゃるには、「野がけなどは決まった作法はないけれども、格式は一つ一つ備わっていなければ成り立たない。第一に、景色に心を奪われて茶会が締まらなくなってしまう。特に客の心が留まるようにするのがよい。そのため、道具も特に秘蔵の茶入などがよい。大善寺山では、尻ぶくらが茶箱に仕込まれていた。よくよく考えるべきである」とのこと。
(『喫茶極秘録』『続茶話真向翁』より)

天正5年(1577年)丁丑10月晦日朝 宗易(利休)の茶会
客:今井宗久、津田宗及、山岡宗無、武野宗瓦
床には桃花無紋の長盆を置き、梅を生け、手水(手洗い)の間に座り、床には橋立の大壺の網掛け、茶入は「えりぶくら」。伊勢天目に黒塗りの台。
(『今井宗久日記』より)

天正6年(1578年)正月26日朝 千宗易(利休)の茶会
利休尻膨
客:宗及、宗二
炉には浄張の釜、自在鉤に手桶を初めから掛けている。床には細口長盆に柳を生け、灰被(はいかつぎ)の天目を尼崎台に載せ、備前の水指(水下)。「シリブクラ」の茶入を袋に入れて、盆なしで茶を点てた。
(『津田宗及茶湯日記』より)

天正15年(1587年)9月30日朝 四畳半
客:古渓和尚、春屋和尚、玉甫和尚
四方釜、瀬戸水指、茶入「尻ぶくら」、黒茶碗、折りため(茶杓)、竹の輪(蓋置)、花入は小備前筒。
(『利休百会茶湯書』より)
(備考)利休の百会において、尻膨茶入が使用されたことは非常に多い。現在の『百会解』によれば、合計27回、客は66人に及ぶ。

天正15年(1587年)10月1日 北野大茶湯 利休の担当分
御茶入「尻ぶくら」。
(『北野大茶湯之記』より)

天正15年10月1日、北野の松原にて秀吉公が茶会を催された。これは都や田舎で茶を好む者たちの風情や道具の善し悪しなどをご覧になるためである。茶を嗜む者たちは喜んで大勢集まり、徳善院玄以と千宗易(利休)が奉行(世話役)を務めた。来会した武士などは350人余り。右近の馬場、左右の松の下、梅の陰、岩の間などに茶室を構え、秀吉公に茶を差し上げた。忠興君(細川忠興)も影向の松の下に茶屋を構えられ、「松向庵」と名付けられた。こう呼ばれるのはこのためである。秀吉公も茶席を3カ所に軽く構えられ、名高い器物を飾って、客を3組に分けて自ら茶を下賜された。1組目は近衛信輔公、日野輝資卿、徳川家康公、織田信雄卿、津侍従信兼。2組目は羽柴秀長卿、羽柴秀次卿、前田利家、蒲生氏郷、稲葉貞道、千利休。3組目は織田有楽、羽柴秀勝、蜂屋頼隆、宇喜多直家、忠興君。
である。お茶が終わった後、あちらこちらに立ち寄られ、お茶を召し上がられた。これを北野大茶湯という。この時、宗易(利休)が茶席に出した物で、当家(細川家)にあるのは、「尻膨茶入」と「芋頭水指」である。
(帝大史料本『細川家記』より)

天正18年(1590年)寅 8月9日朝 利休の元へ京都にて
客:久好、少庵の2人
二畳敷。雲龍釜。小板。茶の環(ヒラメナリ:平目である)、途切れることなく洗っていない絹2つで拭き上げた。瀬戸水指。尻膨(袋は縹色の濃い紫)。井戸茶碗。折りため茶杓。
(『松屋日記』より)

細川忠興(越中守)は永禄6年(1563年)に京都で生まれた。実は長岡兵部大輔藤孝の長男である。慶長6年(1601年)3月19日、岐阜および関ヶ原での軍功を賞され、台徳院殿(徳川秀忠)から利休尻膨の茶入を拝領した。これは忠興がかつて熱望していたからである。寛永2年(1625年)10月2日、領地(熊本)へ下向する挨拶に伺った時、台徳院殿から自ら点てたお茶を賜り、清水藤四郎吉光の御脇指を拝領し、馬を引かせられた。これは昔、忠興が「この短刀を帯びて、利休尻膨の茶入でお茶を点てて楽しむのが年来の願いである」と言っていたのを覚えておられたことの証である。正保2年(1645年)12月2日に八代にて没した。享年82歳。正室は明智光秀の娘(ガラシャ)。
(『寛政重修諸家譜』より)

利休シリフクラ 羽越中殿(所持)。
(木全本古織自筆『大名物記』より)
(備考)羽越中とは羽柴越中守の略である。細川越中守忠興はかつて秀吉から羽柴の姓を賜った。

利休尻膨 細川三斎の養女(所持)。
(『古名物記』より)

利休尻膨 細川越中殿(所持)。
(『東山御物内別帳』より)

利休ゑりぬくら 唐物小壺 細川三斎の老養女(所持)。
(『玩貨名物記』より)

利休尻膨 唐物 大名物 細川三斎(所持)。
(『古今名物類聚』より)

利休尻膨 紐メ(初め?)細川三斎(所持)。
(『御物御道具記』より)

慶長6年(1601年)3月、忠興公が大坂で秀忠将軍に拝謁した際、将軍公は関ヶ原の戦いでの戦功を賞し、利休伝来のこの茶入を取り出して、「この品はあなたが国(領地)と引き換えてでも欲しいと望んでいると聞いていたので、今これを進呈しよう」と言って下賜されたと言い伝えられている。そもそもこの茶入は利休第一の秘蔵品であり、北野大茶湯の時にもこれを用いた。袋は秀吉が投げた頭巾の切れ端で作ったものだとの言い伝えがある。この品は藤原定家卿の鳥の歌の掛け軸、および芋頭の水指と共に、当家(細川家)の三名器と称されるものである。寛永2年(1625年)に至り、将軍(秀忠)は、かつて忠興が「清水藤四郎の脇差を差し、尻膨の茶入で茶の湯をしたい」と述懐していたことを思い出し、その藤四郎の脇差をも与えられた。これにより忠興は長年の望みを達成したとして、左右に置いて朝夕これを愛でて楽しんだという。
(細川侯爵家文書より)

天正15年(1587年)10月1日、秀吉公は北野の松原において茶の湯を催された(略)。この時、宗易(利休)が茶席に出した物で、当家にあるのは尻膨の茶入と芋頭の水指である。この水指の底には利休の判(サイン)があり、堺の住吉屋という者の所から召し上げたものである。(略)
天正18年(1590年)正月3日、長松様(12歳、後の忠利公)が駿府へお出ましになり、同13日に初めて上洛された時、家康公から忠興公へご依頼があったのは、「長松様は田舎(地方)で成長されたため、お作法をご存じないでしょうから、くれぐれも気にかけて、ご指導をお願いしたい」とのことであった(略)。この時、秀吉が初めて長松様に面会されたという。正月17日に京都を出て駿河へ帰られたとのこと。このような経緯により、台徳院様(秀忠)はご自身の一代において特に忠興公を懇意に扱われた。したがって拝領された名物としては、金渡しの墨蹟、利休の尻膨茶入、清水藤四郎吉光の御脇差、守家の御腰物、左文字の御刀、新藤五堀貫の御腰物などがある。
(『細川三斎公年譜抜書』より)

慶長6年(1601年)3月17日、大坂の屋敷にお入りになり、19日に家康公へお目見えされたところ、料理などをご馳走になり、大変ご機嫌がよかった。同日、秀忠公から岐阜・関ヶ原での軍功を賞賛されるお言葉などがあり、利休尻膨の御茶入を下賜された。以前、冗談で「国(領地)と引き換えても欲しい」とおっしゃっていたのを覚えておられ、今その望みを叶えようという、秀忠公の思し召しであったという。尻膨の御茶入は利休秘蔵の第一であり、「肩衝ではなく盆に載る(格式の高い)物はこれであろう」と利休が言っていたという。北野大茶湯にも出された。この袋は、太閤(秀吉)から利休に投げ渡された頭巾であり、御茶入の袋を間道(縞模様の裂)で作るように命じられた時、まずこの尻ふくらの袋の分だけ取っておき、その残りで投げ頭巾の袋を作って差し上げたという。この茶入は丹後守行孝(細川行孝:三斎の孫であり、細川綱利の曾祖父)へ伝来したが、綱利君(細川綱利)へ献上された。
(帝大史料本『細川家記』より)

伝来
千利休が所持し、利休の百会にもたびたび使用され、また北野大茶湯にも出陳された。その後幕府の所有となり、慶長6年(1601年)3月19日、細川三斎が大坂で将軍秀忠に拝謁した際、岐阜および関ヶ原の戦役の褒賞としてこれを賜った。秀忠はまた、かつて三斎が「清水藤四郎の脇差を佩(お)びて尻膨の茶入で茶の湯をしたい」と言っていたのを記憶しており、寛永6年(1629年)になってさらに三斎を召して藤四郎の脇差を賜ったため、三斎は初めて長年の宿望を遂げ、特にこの茶入を秘蔵したという。

利休尻膨

そうしてその後、三斎の養女に伝わり、それから三斎の孫で肥後国宇土の城主(3万石)となった細川丹後守行孝がこの茶入を受け継いだ。本藩の細川越中守綱利の時代にこれを宗家(本家)に返納した。それ以来、細川家においては、この茶入と藤原定家卿の鳥の歌の掛け軸、芋頭の水指を「三名器」として、代々受け継いでいるとのことである。

実見記(実際に見た記録)
大正8年(1919年)10月19日、東京市小石川区高田老松町の細川護立侯爵邸において実物を見た。
口の作りは玉縁で折り返しが浅く、精巧な作りで類がない。口縁に漆で繕った箇所が2つあり、甑(こしき)の周りが少し窪んでいる。撫肩(なでがた)で尻の方にかけて次第に膨らみ、裾際の土が見えるところに至る。紫釉は濃いところや薄いところがあり、全体的に黒味を帯びているが、日光にかざすと紫色の光沢が極めて美しい。
胴には細く浮き出た筋が一回りしており、この線の下に小豆のように丸く膨れ出た点が一つある。置形(模様)は肩先から同じ釉薬の雪崩(垂れ)となって盆付(底付近)の際に至って止まっている。裾から下は朱泥色の土を見せ、糸切りは細かく鮮明で、その中に小さな釉薬の飛びが2カ所ほどある。置形と反対の側にも同じ釉薬の雪崩があり、裾の土際(釉薬が掛かっていない境界)に至って止まっている。内部は口縁のみに釉薬が掛かっている。
全体的に姿勢が優雅で、気品が極めて高く、作行きが精妙で景色が面白い。これが利休のお気に入りであり、三斎が秘蔵して愛したのも、決して偶然ではないことがわかるだろう。

【原文】

利休尻膨

唐物 大名物 侯爵 細川護立氏藏

名稱
利休所持の尻膨茶入なり。小枝略翁の茶事集覽に「利休は丸壺はきらひにて、尻膨を好まれたり、所持のゑりふくら二ツあるなり」とあり。茶道正傳集に「尻膨の茶入は、茄子の茶入の形の惡敷を尻膨と云也、月山が長茄子と言て、茄子の繪に名物有之候が尻膨の長茄子の如くにて候つると心得よと言傳候也、但又尻膨は盆着平かなるものあり」とあり。

寸法
高 貳寸
胴徑(帶にて 貳寸壹分
尻にて 貳寸貳分
口徑 九分
底徑 九分
甑高 壹分
肩幅 壹分八厘
重量 拾九匁

附属物
一 蓋 一枚 無窠
一 御物袋 もえ紫縮緬ねまき 今紫緞紗
一 袋 三ツ
(表の枠囲み)
利休尻膨
(裏の枠囲み)
上代廣東 裹玉虫 緒つがり茶
糸錦 裹玉虫 緒つがり紫
中古縞廣東 裹玉虫 緒つがり紫
一 袋箱 桐 書付細川三齋
利休ゑりぬくら 袋 三
一 挽家 黒塗 甲大面取
袋 ふすべ革 紐萠黄四丸打
一 中箱 桐 白木 書付細川三齋
利休
尻ぬくら
一 上箱 厚皮
一 大外箱 張甲 かぶせ蓋 錠前付
一 茶入目録 一通

一 利休尻ふくら御茶入
蓋 象牙 一ツ
一 紫ちりめん ねまき
一 挽家 黒塗 革袋に入る
一 上箱 桐
御書付 三齋樣御筆
上包 淺黄ふくさ
一 袋 三ツ

一 一ツ 糸錦
一 一ツ 嶋かんとう
一 一ツ 上代嶋かんとう
右別箱に入
正徳六年
未ノ十月二十二日改
一 添状 一通
御茶入のねまき濕受にて、挽家より出入之節、キシビ候而、殊の外危く有之に付用人衆に窺候而紫ふくさにて包み、其以前よりのねまきは、御茶入箱内に、挽家の上に入置候事。
天保二年九月
山田
菅野
財津殿
埴野殿
井上殿

雜記
シリブクラ
尻膨良自昔有此名見『月山茄子繪有吾茄子似尻膨良彼作壺者象茄則吾茄亦可象共渡日本於此長茄爲下劣號尻膨良昔能阿相阿皆曰小壺知茄形肝要也少違者非茄也云々。故後來數寄者尻膨良爲不可手取論價正茄爲價貴者爲百貫後爲五百貫近年甚増進奈良小茄爲二千貫云々。
(傳相阿彌自記東山殿飾之記茶器名物圖彙)

尻膨 小壺にして、町の店にあり、其數知らず。是等小壺の内に、昔は五百貫三百貫の代物に立のぼる名物もあり、當世は主遠きものなり、何れも四方盆に載るものなり。
(山上宗二之記)

利休尻膨 唐物なり、長谷川文琳、志野丸壺、吹上文琳と同時代なり、之を新田、勢高不動と比するに、藥立同時代と雖も、時代劣りたり。伊木、青木、本能寺文琳、富士山肩衝と同位なり。
(不昧公著瀬戸陶器濫觴)

尻ぶくら茶入 唐ものなり、名物記にあり、利休尻ぶくらと云ふ、後に細川三齋公所持、今肥後にあり。
(草間本利休居士百會茶之記)

唐物尻膨 是は裾膨るる故に名付る也、土薄赤、口捻り返し賤しき也、自然華奢もあり、糸切荒目に見ゆる也、地藥少し赤色の飴藥也、上藥は濃きあめ少し高く見ゆるなり、地藥の中に指跡の火間あり、火間と云は、茶入を作り、藥を掛けざまに持つ指の跡なり、其故に手の筋分明に見ゆる也、又自然に火間出來る茶入もあり、竈の内にて藥解け兼て火間となる也、此火間には必ず水藥掛るもの也、此茶入地藥に黒鶉府尾府あり、藤四郎燒に此相あるを根抜と云ふ也、肩衝の處に委し。(茶入圖あり)
(萬寶全書茶器辨玉集)

或時今日庵主(宗旦)宗佐(隨流)へ物語りに宗易(利休)は尻膨の茶入を嗜みて二ツまで所持す、一つは三齋に參らせ、一つは予が家に傳へたるを若き時煩ひて厨乏しかりければ、姪の九兵衛に其茶入替りに遣はし、金子調へさせつるが、そのまゝにて元取り戻さず、先にはかゝるものとも知らで、うづもれやしつらん、茶入はあめ藥の一色なるものなりといはれし。
(茶話指月集)

利休尻膨 二つあり。一は千宗左より、今桑名にあり(異本今宗不に來る)。一つは千宗安より、上田宗五。
(千家中興名物録)

尻膨 宗信云、此尻膨は昔三齋公に有と不審庵の書に有る由、尤古瀬戸あるべしと云、慶長十八年土門久好の留に、少庵の茶入尻ふくら利休所持あすとぞあり。尤も數々所持にてもあるべし。
(閑事庵宗信著利休百會解)

集雲庵覺書に、野掛狩場などにて茶會を催す事あり。宗易大善寺山にて御茶上らせしは、愚僧も陪從して、よく/\所作を見候なり。居士のたまふは、野がけなどは定りたる法なけ登ども、格は一ゝ具はらすしては成り難し、第一景色に奪は登て、茶會しまぬものなり。別て客の心もとまる様にするがよし、夫故道具も別て秘藏の茶入などよし。大善寺山にて、尻ぶくら茶箱に仕込まれしなり。能く勘辨すべしと云々。
(喫茶極祕録、續茶話眞向翁)

天正五丁丑年十月晦日朝 宗易會
今井宗久 津田宗及 山岡宗無 武野宗瓦
床に桃花無紋長盆に居て、梅生て、手水の間にをりて、床橋立の大壺あみか
茶入ゑりぶくら。伊勢天目黒臺。
(今井宗久日記)

天正六年正月二十六日朝 千宗易會
利休尻膨

宗及 宗二
爐、淨張、自在に手桶始より。床細口長盆柳生けて、灰被の天目尼崎臺に、備前水下。シツブクラの茶入、袋に入れて、盆なしに、茶立候。
(津田宗及茶湯日記)

天正十五年九月三十日朝 四疊半
古溪和尚樣 春屋和尚樣 玉甫和尚樣
四方釜 瀬戸水指 ちや入尻ぶくら 黒茶碗 折りため 竹輪 花入小備前筒。
(利休百會茶湯書)
(備考)利休百會に尻膨茶入を使用せしこと頗る多し。今同百會解に由るに、都合二十七回、客六十六人なり。

天正十五年十月一日 北野大茶湯 利休請取分
御茶入尻ぶくら。
(北野大茶湯之記)

天正十五年十月朔日、北野松原にて秀吉公茶の會を催さる、是都鄙茶を好むものゝ風情道具の善惡等を御覽あるべき爲と也、茶を嗜む輩は歡んで夥數來り集り、徳善院玄以、千宗易を奉行とせらる、來會の諸士三百五十餘人、右近の馬場、左右松の下、梅の陰、岩の間に數寄屋を構へ、秀吉公に茶を奉る、忠興君御茶屋を影向の松の下に構へらる、松向庵と名付られ候。稱するは此謂也、秀吉公も園を三ヶ所輕くかまへられ、名高き器物を飾りて、三番に分けて、御手づから茶を下され候、一番は近衞信輔公、日野輝資卿、家康公、信雄卿、津侍從信兼、二番は秀長卿、秀次卿、前田利家、蒲生氏郷、稻葉貞道、千利休。三番は織田有樂、羽柴秀勝、蜂屋頼隆、浮田直家、忠興君也。相濟みて後、こゝかしこに入らせられ、茶を召上られ候、是を北野大茶湯と云ふ、此時宗易が數寄屋に出したる物、御當家にあるは、尻膨茶入、芋頭水指也。
(帝大史料本細川家記)

天正十八年寅八月九日朝 利休へ京にて
久好 少庵 二人
二疊敷 雲龍釜 小板 茶の環不切に不洗絹二つにて御上げ候。瀬戸水指 尻膨袋 井戸茶碗 折ため茶抄
(松屋日記)

細川忠興 永祿六年京師に生る、實は長岡兵部大輔藤孝が長男。慶長六年三月十九日岐阜及關原の軍功を賞せられ、台徳院殿より利休尻膨の茶入を拜賜す、これ忠興かつて懇望せるによりてなり。寛永二年十月二日、城地に行くのいとま申すの時、台徳院殿より點茶をたまひ、清水藤四郎、吉光の御脇指を拜賜し、馬をひかせらる、これ往年忠興此短刀を帶し利休尻膨の茶入を以て茶をくみて樂まんこと素懷なりといひしを御おぼえありしと御證あり。正保二年十二月二日八代にて歿す。年八十二室は明智光秀の女。
(寛政重修諸家譜)

利休シリフクラ 羽越中殿。
(木全本古織自筆大名物記)
(備考)羽越中は羽柴越中守の略なり、細川越中守忠興嘗て羽柴姓を秀吉よりたまはる。

利休尻膨 細川三齋養娘。
(古名物記)

利休尻膨 細川越中殿。
(東山御物内別帳)

利休ゑりぬくら 唐物小壺 細川三齋老養娘。
(玩貨名物記)

利休尻膨唐物 大名物 細川三齋。
(古今名物類聚)

利休尻膨 紐メ 細川三齋。
(御物御道具記)

慶長六年三月、忠興公大阪にて秀忠將軍に謁し給ひしに、將軍公の關原役に於ける戰功を賞せられ、利休傳來の此茶入を取出して被申候樣は、此品は御身が一國に替へても所望したき旨聞及びたれば、今之を贈進すべしと申されて進せられたる由、申傳ふ。抑も此茶入は利休第一の秘藏品にして、北野大茶湯の時にも之を用ひ、袋は秀吉投頭巾の一片にて作りしものなりとの申傳、此品は定家卿鳥歌の御幅及芋頭の水指と共に、御家の三名器と稱するものなり。寛永二年に至り、將軍忠興が嘗て、清水藤四郎の脇差を差し、尻膨の茶入にて茶湯致したしと述懷せる事ありしと思出し其藤四郎の脇差をも與へられたり。此に於て忠興は年來の望み達したりとて、左右に置きて朝夕之を愛翫したりと云ふ。
(細川侯爵家文書)

天正十五年十月朔日、秀吉公北野松原に於て茶湯を催さる(略)。此時宗易數寄屋出したる物、御當家にあるは尻膨の茶入、芋頭の水指也。此水指の底に利休判あり、堺の住吉屋と申者の方より被召上候。(略)天正十八年正月三日、長松樣(十二才、忠公也)駿府へ御出同十三日始て御入洛被遊候時家康公より忠興公へ御賴被成候は、長松樣は鄙にて御成長被成候により、御作法無御座候まゝ御心を不被置くれくれ御見立賴思召との事(略)。此時秀吉始て長松樣に御對面被成候云々。正月十七日京を出て駿河へ歸らせ給ふとなり。去により台徳院樣御一代別して忠興公御懇意に御あしらひ被成候、依て拜領被成候名物にては、金渡しの墨蹟、利休の尻膨茶入、清水藤四郎吉光の御脇差、守家の御腰物、左文字の御刀、新藤五堀貫の御腰物等なり。
(細川三齋公年譜拔書)

慶長六年三月十七日、大阪の御館に御入、十九日家康公へ御目見被成候處、御料理等被仰付、御首尾能御座候。同日秀忠公岐阜關原表之御軍功御賞美之御物語など有之、利休尻膨の御茶入を被進候。前廉(嘗て)御戲に、國にかへても御望と被仰候を御覺被成候而今其望を被叶候段、秀忠公御意候と也。尻膨の御茶入は利休秘藏の第一也、肩衝にあらずして盆に載る物は是にてあるべしと申候と也。北野大茶湯にも出候。此袋は大閣より利休に抛頭巾、御茶入之袋をかんどうにて被仰付候時、先づ此尻ふくらの袋程取置候て、其跡にて抛頭巾の袋を仕り上しと也。此茶入丹後守行孝主(細川行孝 三齋の孫 細川綱利の曾孫)へ傳來候を、綱利君(細川綱利)に被差上候
(帝大史料本細川家記)

傳來
利休所持にして、利休百會にも屢々使用せられ、又北野大茶湯にも出陳せられしが、其後幕府の御物となり、慶長六年三月十九日細川三齋大阪にて將軍秀忠に謁せし時、岐阜及び關原戰役の賞として之を賜ふ。秀忠又嘗て三齋が清水藤四郎の脇差を佩び尻膨の茶入にて茶湯致したしと言へるを記憶し、寛永六年に至り更に三齋を召して、藤四郎の脇差を賜ひしかば三齋始めて年來の宿望を遂げ殊に此茶入を秘藏せしと云ふ。而して其後三齋の養娘に傳はり、夫より三齋の孫分藩肥後國宇土の城主(三万石)細川丹後守行孝、此茶入を持傳へ、本藩細川越中守綱利の時之を宗家に返納せり。爾來細川家に於ては、此茶入と、定家卿鳥歌の幅と、芋頭の水指とを三名器として、代々相傳ふとかや。

實見記
大正八年十月十九日、東京市小石川區高田老松町細川護立侯邸に於て實見す。
口作玉縁拈り返し淺く、精作無類口縁に漆繕ひ二個所あり、甑廻り少しく窪み、撫肩にて尻の方次第に膨らみ、裾際土際に至り、紫釉或は濃く或は薄く、總じて黒味を帶びたれども、日光に翳せば紫色光澤極めて麗し、胴に細き浮筋一線を繞らし、此線下に小豆の如く丸く膨れ出したる一點あり、置形肩先より共釉ナダレ盆附際に至りて止まる、裾以下朱泥色の土を見せ、糸切細くして鮮明なる其中に、小さき釉飛び二ヶ所程あり、置形と反對の側にも亦共釉ナダレあり、裾土際に至りて止る。内部は口縁のみ釉掛る、大體姿勢優雅にして、氣品極めて高く、作行精妙にして景色面白く、其利休の寵兒たり三齋の秘愛たりしも決して偶然ならざるを知るべし。

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