酒を盛る坏の義であります。
わが国ではかつて多く土器であったことから「かわらけ」とも称します。
土器のほかに金属器・漆器・陶器・磁器・珠玉・獣角・介貝などがあるようで、さまざまな形があります。
以下陶磁にかかわりのあるものについて述べる。
【さかずきの字】さかずきの義を広めるとその字は極めて多いようです。
字書を点検して得だのは次のようなものです。
盃・扱・金・豆・孟・盆・尨・益・宜・蓋・漣・盛・盗・畳・盤・盆・扱・怠・屹・杯・梧・柾・格・楷・檻・橿・械・櫨・角・胱・舗・服・筋・腫・解・缶・坏・賤・借・嬰・鍾・鎗・酬・白・間・邑・施・牌・雀・爵・匿など。
「日本酒盃変遷大概」『古事記』上の須勢理毘売命が大御酒坏を挙げて歌った記事をもって盃の初見とします。
また『万葉集』に「春柳かづらに折りし梅の花誰か浮べし佐加豆岐の上に」「春日なる三笠の山に月の船出づ遊士の飲む酒杯に影に見えつつ」「酒杯に梅の花浮け思ふどち飲みての後は散ぬともよし」とみえています。
さかずきの語の古さがわかろう。
なお上古においては果実・介貝・竹・角のような天然物が盃として用いられたのであるでしょう。
『古事記』に応神天皇が豊明の日に髪長比売に大御酒の柏をとらせて御子大雀命に賜った記事があります。
この例によって後世も豊明の節会には柏葉の杯が用いられました。
また大1会の器具には御酒用として現今の土器に似た土器があるようで、これと同じ形をした石の盃が古墳より出ています。
なお大嘗会の天皇の供御の盃は、径が小さくやや深めで、現在の子供用の飯茶碗大の土器であります。
現在宮中の御成年式に用いられる盃もほぽ同様のようであります。
かわらけと同じ土焼で台付の高坏というものがありますが、これはもと土器(かわらけ)の下にわげもQQ4nをけけたことから出たもので、菓子などを載せるのに用いたものらしいですが、また酒を飲むのにも用いたようであります。
土器から木盃となったのにはさまざまの説がありますが、いつ頃からそうなったのかはまだ明らかでないようです。
平安時代後期すでに漆盃があった記録があります。
鎌倉教恩寺には平重衡が千寿前と酒宴した塗り盃を寺宝として伝え、また北条泰時の朱漆の盃であるとして京都栂尾高山寺に伝えられているものがあります。
金閣寺には足利義政所持の朱塗りの七賢杯と称するものがあります。
この時代の上流社会には漆塗りの木盃があった証拠でありますが、金閣寺のものは当時のものではなく後世の偽称であるとの説もあります。
江戸時代の中期までは主に漆塗り盃と銚子とを用いたものらしく、その時代の絵画によっても一般の酒席に用いられたことがわかります。
そして盃の大きさはかなり大きいです。
陶磁の酒盃と徳利とは江戸時代中期からの流行であります。
『寛天見聞記』に「予幼少の頃は酒の器は鉄銚子、塗盃に限りたる様なりしを何時の頃よりか銚子は染付の陶器と成り盃は猪口と変じ酒は土器でなければ呑めぬなどといひ云々」といいます。
また『守貞漫稿』に「盃も近年は塗盃を用ふこと稀にて磁器を専用とす、京坂も爛徳利は未だ専用せざれども磁杯は専ら行はるx也、磁杯三都ともにちょくと云、猪口也、三都とも式正塗杯、略には猪口、式正にも初塗杯後猪口を用ふこと銚子に準ず云々」といいます。
同書にはまた「近製猪口薄きこと紙の如く口径二寸許深さ八分ばかり也、大小あるようで、尾張にて専ら焼之、昔は陶器磁器とも始め紋模様等を描き彩り後白玉粉と云を掛て焼成る也、然るに文政比より此猪口を白のまゝ白玉をかけ焼て無文なるを太白と云、是に江戸大坂等にて藍及び諸彩金銀泥を以て種々密画をかき其彩品に白玉粉等を加へたる故に再恣に焼て属之也、号てきんがきと云、錦書なるべし、其美未曾有也、近年是を専用せしが三五年来数彩は梢廃れ藍或は金銀圃行る、此他舶来の物をも用ふ、舶来の物等は内外ごすの藍絵あるようで、再焼の物に非ず」とあります。
これらは近時の猪口に比べると大きいです。
『増補浮世絵類考』勝川春扇の条に「後陶器の焼付け絵をかきて板刻画をぱ書かず、其比に酒杯、絵猪口と云ふもの流行の始めにて専らこれのみ業とせり云々」といいます。
『宮川舎漫筆』には「文政七申年の事なりしが何事も年移るに随ひ万のこと便利を思ひ又珍敷事とも工夫する事なり、(中略)瀬戸物に画をなして夫を焼付る業を仕出し其頃春画など猪口盃なと大いにはやる、此焼付の瀬戸物は今に流行なり、亦水戸の産なるもの湯島天神の辺に住して瀬戸物に鎮信彫をする事を仕出してはやる也云々」とあります。
すなわち享和(1801-4)から文政(1818-30)頃まで絵猪口が極めて流行し、その大半は春画であったことが想像されますが、それと思われるものがなお現代に遺存しています。
風俗研究の資料として逸してはならないものであります。
また当時の輸入品は染付のみであったことがわかります。
この江戸の陶画を付けることは後世まで盛んで、東京絵付・江戸絵付の称があります。
その工人のことを、花瓶や茶碗など大器に着画するものをも統合して猪口絵師と呼んです。
以来酒盃はおおむね磁器となり、明治以後の盃の容積は形状のいかんにかかわらずほとんど等しいです。
径は三センチにやや足りないものを普通としますが、地方には多少大きなものもあります。
このように盃は土器・塗り盃・大猪口・小猪口と変遷しましたが、徳利もまた酒海・瓶子・銚子・提子・爛堤と変遷しでします。
これは当時の社会文化と密接な関係があったことはいうまでもありませんが、またいっぽう酒の状態、酒精分の強さ、飲酒の風習などとも深い関係があります。
酒の酒精分か少ない間は大盃をよしとしました。
ゆえに濁酒などの流行時代は大盃でありました。
清酒の時代に入ってもその初期は糖分が多く酒精分か少ないので大盃がよかったですが、醸造法の進歩によって酒精分か多くなると盃の形も次第に小さくなりました。
特に焼酎用の盃などは径一・五センチ位のものが鹿児島・沖縄などで用いられました。
貞観・延喜の式などに河内国(大阪府)・備前国(岡山県)・尾張国(愛知県)・長門国(山口県)より貢進された酒坏・蓋がみえています。
土師器・須恵母乃・甕器などであります。
長門・尾張両国のものは甕器であります。
甕器は「しのうつわもの」と訓み、その実体はまだ詳細にされていませんが、堅緻な陶器の有釉のものと解されます。
他はすべて無釉でのちの土器の類であります。
土器はのちに陶器や磁器に圧倒されましたが、盃にのみなお若干の勢力を残し、単に「かわらけ」と呼ぶと土器盃を指す程であります。
近年まで土器盃を製したのは山城国愛宕郡岩倉村大字木野(京都市左京区岩倉木野町)および同紀伊郡深草村(同市伏見区深草)・伊勢国多気郡明星村大字有爾(三重県多気郡明和町)・武蔵国江戸浅草今戸(台東区)の四ヵ所であります。
このうち原始的気分のみなぎっているのは木野であるようで、これを俗に幡枝焼と呼ぶのは以前隣地の幡枝にあったのがここに移ったからであります。
この地は明治維新まで禁裏御用を承り、御土器師は大夫の号を許されていました。
その製品は轆轤も型も用いず、窯は小判型の桶窯で内窯のない素焼窯であります。
その盃は臍と称するものを最小とし小重・大重・三度より十一度まであるようで、十度を鼻塞ともいいます。
最小の臍は直径五センチ、最大の十一度は直径二七センチ程であります。
この地の伝説によりますと、土器師は延暦遷都の時大和から移ったものであるといいます。
『大日本窯業協会雑誌』第三百六十二号に各種の土器に関する大須賀真蔵の調査を載せています。
おおむね土器は装飾を施しませんが、ときどき神社の紋などを薄肉の盛上げまたは線書きの沈彫としたものがあります。
陶磁になると形状や装飾がさまざまとなり、他の一般器物にみられる各種の手法が盃にもまた施されています。
要するに工芸の原則に従い粗から精へ、脆から硬に進み、現在は磁器の全盛時代であるとしますが、洋酒が入って来たのと共にガラス器の台頭も侮ることができないようです。
「中国」中国古代の酒器には宗廟祭祀に用いるものとして爵・琴・匝などの青銅器があります。
鼎もまた多くは酒を入れて供えた祭器で、王侯の家では大鼎を鋳て主権の継承の証としました。
爵は臣下にもこれを与えました。
後世功臣に爵位を与えることは、当初祭器の爵を与えたことから起こったものであるでしょう。
わが国においては華族の当主が家督継承の際銀の天盃を賜りました。
尊も酒を入れて供える祭器で、後世陶製のものを鱒、木製のものを樽といきました。
土器の尊すなわち缶は石器時代より広く使用され、古代には缶を叩いて民謡を歌うことが農民間特に辺鄙な秦などの一般風習でありました。
わが国の農民が樽を叩いて八木節を歌うのによく似ています。
戦国時代に秦王と趙王とが凰池に会した時、趙の賢相関相如が秦王に缶を叩かせて趙王の恥をそそいだことは歴史に名高いところであります。
漢代に至って耳杯が盛んとなりました。ただし杯の形式はすでにこれ以前にあって、ときどき瓦製のものもありますが、それは実用の器ではなく多くは明器であったようであります。
なお杯の本字は桔であるようで、字が示すように木質をもってつくられましたが、その形は楕円ですので、陶車を用いるのを常とする土器より発生したものとは思えないようです。
漢代の杯も多くは漆杯であります。
唐代に至って釉薬を付した真の陶器の発達と共に杯は主として陶杯となり、各種の形式が現れました。
以来陶磁の発達と共にその技巧は万端を極めました。
古式のものは高台がありませんが、後代のものは高台が付いています。
浅く平らで大きく、芒を描いてあります。