鹿児島県産の陶磁器の総称。
ただし狭く薩摩錦手を指して薩摩焼と称する例があります。
これを分類すると古帖佐焼(藩窯、陶器・拓器)、元立院焼(民窯、磁器・妬器)、串木野焼(民窯、陶器)、苗代川焼(民窯、陶器・磁器)、山元焼(藩窯、拓器)、竜門司焼(民窯、妬器・磁器)、竪野焼(藩窯、陶器)、磯御庭焼(藩窯、陶器・磁器)、仙厳焼(藩窯、陶器)、新御庭焼(藩窯、陶器)、磯焼(民窯、陶器)、笠野原焼(民窯、陶器・土器)、田之浦焼(民窯、陶器)、平佐焼(藩窯、磁器)、平佐皿山焼(民窯、磁器)、長太郎焼(民窯、陶器)などとなります。
【沿革概要】創起は文禄・慶長の役に出陣した島津義弘が、かねて陶器製造に巧みな者を朝鮮の地に探索し、1595年(文禄四)5月、二十二姓八十余名の朝鮮人の男女を連れ帰り、1601年(慶長六)金海(星山伸次)に大隅国帖佐(姶良市)に宇都窯(帖佐焼)を開かせましたが。
1599年(同四)には朴平意が串木野焼を創始していました。
1603年(同八)串木野焼は廃絶し、苗代川焼が起こりました。
1608年(同一三)には帖佐焼が廃され、加治木焼(御里窯)が始まりました。
1614年(同一九)朴平意が白土を発見して苗代川白薩摩が始まりました。
元和年間(1615-24)には加治木焼が廃絶、金海が子の金和・田原友助らと共に竪野焼を創始、1648年(慶安元)有村碗右衛門が京都御室窯より純日本風の絵付を伝受し薩摩錦手を始めました。
1667年(寛文七)山元焼が起こりました。
寛文年間(1661-73)小野元立坊が元立院焼を開創し、今の鹿児島市高麗町にいた帰化朝鮮人を苗代川(日置市伊集院町)に移しました。
1704年(宝永元)苗代川の帰化朝鮮人の子孫を笠野原(鹿屋市笠之原町)に移し、笠野原焼が起こりました。
1735年(享保二〇)木村探元が竪野窯において画法を教授しました。
1744年(延享元)頃竪野焼が衰微し、宝暦年間(1751-64)には一時中止となったがのちに復活しました。
また苗代川焼は二十年間休窯しました。
1770年(明和七)に河野仙右衛門が出て藩内の製陶は隆盛を極めました。
安永年間(1772-81)平佐焼を開窯、川原芳工およびその子の弥五郎が肥前国(佐賀・長崎県)に赴き、磁器の法を伝受しました。
寛政年間(1789-1801)川原芳工・星山仲兵衛金臣は陶業修業の旅に出発、金臣は京都の錦光山宗兵衛から錦手の法を伝受し金欄手を始めました。
芳工は花倉(鹿児島市吉野町)において白陶の製法に従事しましたが、没後廃窯。
1829年(文政コ一)重久元阿弥は仁阿弥道八より陶法を受け、1844年(弘化元)朴正官が苗代川の錦手主取役となりました。
1853年(嘉永六)磯集成館の陶磁器工場が完成し、磁器の製法が始まりました。
1857年(安政四)苗代川の窯ノ平に南京焼が起こりました。
1860年(万延元)加治木皿山の陶器が起こりました。
1863年(文久三)集成館および錦谷窯場が倒壊。
慶応年間(1865-8)長崎の画工青井宗十郎が平佐(薩摩川内市平佐町)に来ました。
また尚古集成館が完成し、田之浦焼が開窯しました。
明治年間(1868-1921)青木宗兵衛が田之浦窯に来て手琥櫨を伝授。
田之浦藩窯を廃止し田之浦陶器会社が設立されました。
平佐窯が渡辺の有となりました。
平佐に田中徳兵衛が開窯。
田之浦陶器会社が解散。
青木宗兵衛は奄美大島に開窯。
玉光山窯が起こりました。
苗代川陶器会社瓦解。
奥常次郎が田之浦窯を経営。
柚木崎六兵衛・永井太左衛門・瀬島熊助・慶田茂平らが開業。
島津忠義の御庭焼研究所が始まったがしばらくして廃止。
長太郎焼開窯。
沈寿官没します。
苗代川焼衰微。
島津忠重が御庭焼を開業、これは1927年(昭和二)に廃止されました。
市来伊太郎が磯焼を開創。
以上のうち帖佐窯・加治木窯・苗代川窯・竪野窯の初期の作品を古薩摩と称します。
なお義弘および家久が古帖佐焼・苗代川焼の白物製品に自ら捺印して褒賞としたと伝えるものを御判手といいます。
【製品】初期においては朝鮮伝来の太白(白高麗)・三島手・宋胡録・刷毛目のほかに薩摩特有の蛇蝸釉・黒褐釉の製品かおります。
江戸中期以降に案出されたものに観音寺焼・鮫肌焼・玉流焼・純日本風の錦手などが数えられ、幕末には金欄手、特に金高盛・南京青磁・肥前赤絵かおります。
明治時代にはいわゆる金ピカの輸出品・代砂盛・糸貫入・長太郎の楽焼きなどかおります。
製品には古来自薩摩と爪一薩摩との判然とした区別かおり、自隣摩はもっぱら島津家の訓度品に用いられ、藩窯以外での製造販売を厳禁していた(ただし光久時代からは不合格品として唐千鳥印の白陶を分譲した例外がある)。
このため白陶を「御法度の焼物」と珍重し、黒褐釉のものは特に御前黒と称されました。
以下薩摩焼の製品の特徴を概説しますと、(一)太白焼白高麗ともいいます。
茶碗が多く香炉・高坏などもあります。
胎土は荒く鈍白色の釉が掛かり、高台近くより土をみせ、作りは厚手で雄健、荘重な迫力は朝鮮茶碗に近いです。
(二)蛇蝸釉水指・花生に多く、茶碗や茶入はまれであります。
胎土はよく焼き締まり、岩石のような感じがします。
素地に青・黄・黒色の釉を重厚に施し、上に白色の凝釉の斑々かおり、男性的でしかも稚拙な作行とあいまって妙味があります。
いわゆる古帖佐の虎斑釉・玉鱗変・松皮変・鬼肌・ドンコ肌・掟焼と呼ばれるものです。
(三)黒褐釉紫薩摩とも称され、硬焼厚手で不器用なつくりであります。
茶入・茶碗かおります。
(四)観音寺焼小野元立坊が始めたものです。
黒褐釉の素地に利休茶色の円形の砕裂文様の泡釉が掛かっています。
(五)鮫肌焼竜門司焼のものが有名であります。
釉薬と素地の膨脹収縮率の不一致より生じる剥脱を利用したもので、すなわち施釉の際にひび割れを生じ、それが熔けてしかも平坦に流れず、ちょうど鮫の肌のようにこまかい粒状の粗面のあるものです。
志野・萩・上野などの鮫肌と異なり淡鼠色の密接したひび割れであります。
(六)玉流釉爪一褐釉を濃厚に掛けた上へ青釉を流し掛けたものです。
竜門司窯の作品に水注・花入・冊物などが多いようです。
(七)金欄手1794年(寛政六)星山仲兵衛金臣が京法によって竪野窯に新窯を構えたのに始まります。
島津栄翁(重豪)の好みによるものであるようで、当時の作品は白陶の型器に金粉その他の雑彩で文様を現したものです。
なお金臣と同行した川原芳工ものち花倉の地に錦手窯を起こし製造に従事しましたが、1799年(寛政一乙に没すると窯は廃止されました。
1827年(文政一〇)に栄翁はさらに茶道役重久元阿弥を京都の仁阿弥道八の陶場に遣わして法を受けさせました。
重久元阿弥は帰来し同じく啜野に窯を築き、道八の原料を用いてついに華芙な金欄干を製出しました。
これは金臣の製の改良でありました。
啜野窯巾期の作品は当時の風潮をうけて五彩のほかに金銀を用い、絢爛な画態と和らかみのある表現を特徴としています。
(八)金高盛金銀を重厚に掛けて焼成し、のち籾殻で磨いて光沢を出したもので、絵付の部分は素地よりも一段高く、ザラザラした肌であります。
これらの多くは島津家の調度品または諸侯への献贈品で、他のものはみな粉色絵付でありました。
(九)南京青磁斉彬の集成館時代は磁器の製造を奨励し、苗代川に支部を設けて盛んに輸出向きの品をつくらせました。
器の肩に英文が記入されたものがあります。
(十)肥前赤絵肥前磁法による北郷家御用窯平佐焼の製品。
彩画に凛然とした品格があります。
(十一)代砂盛金掛けを重厚に施さず、釉薬で高くしてその部分に金付をしたものです。
(十二)糸貫入は薩摩焼の特徴であり古くから一種の釉薬を施して焼成した一重貫入があったが(時代の古いもの程細密である)、明治時代の忠義の御庭焼時代に至って、新しく二重貫入の法が工夫されました。
すなわち性質の異なった二層の釉薬を掛け合わせ、その貫入の細粗を重複させて一種の景色とした壁器であります。
粟田焼にある連銭貫入(石垣貫入)と異なり、焼成後外気に触れると幹線を最初として順次に支線が無数に派出するもので、八重貫入・糸貫入・二重ひびなどの名称があります。
(十三)長太郎焼素地は黒褐・浅灰・微青色のものがあるようで、その上に窯変によって油滴・蛇蝸などを生じ、また鉄錆・青銅色の色調が変化したものがあります。
一般に厚手で雄健な作行であります。
なお薩摩白陶は原土と施釉の関係でいわゆる黄薩摩と呼ばれるように全休が卵黄色を呈することも特徴の一つであります。
次に茶器としての薩摩焼については、『大正名器鑑』には「茶器に於ては最初帖佐に於て焼き出したるもの及其後遠州時代に至りその切形を以て焼きたる瓢箪若くは肩衝類の茶入に名品あるようで、而して其瓢箪中には遠州の註文にて十個を限り製作したりとて甫十瓢箪と称する名物あるようで、黒釉艶麗にして往々蛇蝸色を交へ、最も茶味に富みたるものなり、爾来薩摩の製陶は倍々盛大に赴きたれども、切形意匠を授くる者なきが為めにや、茶入その他雅致ある作品は夙に其跡を絶ち遠州時代以後殆ど名器を出さゞる事とはなれり」とみえます。
「輸出の隆盛と模造」竪野焼中期以降の薩摩錦手は濃艶な色彩と画趣とを有しなかば装飾的なものとなりましたが、なお柔和で色彩豊富な特徴を存していたので非常に外人の嗜好に適し、1867年(慶応三)にパリ博覧会に出品した朴正官作の錦様花瓶が高評を得ますと、輸出品の製陶が次第に盛んとなりました。
しかしこのことはたちまち粗製濫造の弊を伴い起こし、加えて東京絵付すなわち薩摩の白陶の無地品を購入して東京において輸出向きに絵付し、はなはだしいものは素地をも他地方から取り寄せ、または直接製造して薩摩焼の名で海外に出すようなことがあったため、著しく声価を失って、田之浦陶器会社のごときは1875年(明治八)ついに瓦解してしまりました。
現在製造を続けているものは苗代川焼・田之浦焼・長太郎焼などがあるのみ。
以上は多く前田幾千代著『薩摩焼総鑑』によります。
詳細は各項目参照。
なお所掲の銘はモースの『日本陶器目録』に収載された薩摩焼関係の款識のうち、陶工および所属の明らかでないものであります。
1、古薩摩茶入、その他不詳。
享保年間(1716-36)。
2、書判、瀬戸釉茶壺。
魁は作者名であるでしょう。
3、読み不明、宋胡録の急須にあります。
天保年間(1830-44)。
4、前に同じ、天保年間。
5、三島手徳利。
寛政(1789-1801)末。
6、その地名より出たといいますが、詳細は不明。
慶安年中(1648-52)。
7、竃甲斑急須。
詳細不明、天保年中。
8、錦手匙形皿、年代不詳。
9、読み不明、白薩摩の酒杯に青の顔料を使用したものです。
一説に御用陶工の誰もが用いた通常の印であるといいます。
天保年中。
10、読み不明、白薩摩鉢。
天保年中。
11、書銘、白薩摩酒徳利。
天保年中。
12、泰山と読めます。
白薩摩角形水指。
13、山原作と読めます。
浅鉢。
安永・天明年中(1772-89)。
14、錦手六角形小皿、徳川家の紋章入り。
将軍家への献上品でしょうか。
年代不詳。
15、彫銘、錦手置物。年代不詳。
16、錦手花鉢台。
17、不詳。
18、不詳。
19、白薩摩錦手肴皿。
明治初期。
(『陶器考付録』『観古図説』『薩摩焼陶器の起原』『薩摩陶器の沿革』『義弘公御事蹟取調概略』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『日本陶器目録』『陶器類集』『日本近世窯業史』『図解薩摩焼』)