佐藤伊兵衛 さとういへえ

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鶴田 純久の章 お話

福島県会津焼の磁祖。
父は会津藩瓦役所の定番でありました。
幼い時母を失い出家しましたが、殖産に志して寺門を去り、実兄義治と図って白磁の試製を藩庁に出願しました。
1777年(安永六)藩は江戸から近藤平吉を招いて焼物師範役とし、佐藤父子はその門弟となりました。
しかし平吉は焼物師であったためしばらくして解職され、以後伊兵衛は独自で研究を進め染付の茶碗をつくりましたが、肥前焼とはまだ雲泥の差があり妬器質のものにすぎませんでした。
そこで肥前(佐賀・長崎県)行きを志し、藩の補助を願い出て金一両を貸与され二両を手当に賜って二年間の暇を給わり、1797年(寛政九)9月11日に出発しました。
当時三十六歳。
伊兵衛はまず江戸に出て、その後志戸呂焼・常滑焼・瀬戸焼・信楽焼などを見学し、さらに京都の清水焼・粟田焼をも探り一時は清水六兵衛の弟子となりました。
その後知人の紹介で大阪に赴き、鍋島家御用達布屋新右衛門に面会して鍋島家菩提所高伝寺住職への添書を受けました。
伊兵衛は船便で四国に渡り讃岐国(香川県)志度焼を視察したのち、肥前に渡って高伝寺を尋ね石焼伝習の紹介を請いました。
そこで同僧は諸方面に照会を試みましたが、どこからも国産を他に漏らしてはならない規制があるため謝絶されました。
伊兵衛は当惑しましたが、高伝寺の住職は幸いに瀬戸場出身の人であったので頼んでその下僕となり、ときどき瀬戸場に行くことができました。
かくして年来の志望を達し、磁器の製造法はもちろんのこと窯および道具類の寸法に至るまでも探究し、また石の見本を採収するなど百方の用意を尽くしたので、住職に厚く感謝して別れ、長崎に行って呉須その他の顔料などを買い入れ、その帰途にはまた萩焼・備前伊部焼を視察して大坂に戻り布屋に投宿し、その周旋によって楽焼き師千助について伝習、さらに布屋の尽力で金六両を借り受け京都に上って篠田五郎右衛門の弟子となりました。
その後江戸へ戻り、満一年を経て1798年(寛政一〇)8月ついに会津に帰着しその経歴の結果を上申しました。
藩主は大いに伊兵衛の功労を嘉賞し、翌年4月を期して石焼製造のために役場を建て、伊兵衛に三人扶持、四石を賜り、またその製造の助手として本郷村の手代木幸右衛門・加藤四郎次・薄一郎右衛門・加藤左中の四人を伊兵衛の弟子としました。
翌1800年(同二一)4月肥前皿山風の窯を築き、9月には製造場を郡役所の支配に属させ、瀬戸方役人の田村清次右衛門が領内の地理に詳しいことから命を受けて諸所の土石を採掘し、10月には採掘した土石の各種を調合し、数回の試焼をしたのち白磁の製造に成功しました。
これは以前に妬器を製していた時から二十三年後のことであります。
1804年(文化元)11月19日伊兵衛は瀬戸方棟梁を拝命し、その工場は町奉行の支配するところとなりました。
しかし同奉行の西川深蔵は工場支配の地位を利用して私専の挙動が多く、ついには同工場の盛衰にもかかわる程でありましたので、伊兵衛は憤慨のあまりその職を辞して平民となり、町奉行を相手取って非行を訴え出ました。
藩庁によって吟味した結果、町奉行は有罪と決定して知行の半分を召し上げられ伊兵衛の勝訴となりました。
伊兵衛は上司を相手取ったことから死刑に処せられるはずのところを、積年の功によって単に耳鼻をそがれることとなりました。
しかしその熱意と誠意はついに公議の認めるところとなり、その後再び勤務を命じられることになりました。
したがって石焼の製はますます進み門人もまた増加しました。
その門人、伊兵衛の石碑に彫刻してある者だけでも実に三十四人を数えます。
伊兵衛が後進をよく導き、会津焼の拡張を促した事績がこのことからも推知できるでしょう。
伊兵衛は1842年(天保一三)10月14日、八十一歳の高齢で没しました。
子孫がその業を伝えます。
(『日本近世窯業史』)

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