石黒忠悳 いしぐろただのり

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鶴田 純久の章 お話

1845年(弘化二)岩代国(福島県)の平野順作の長男として生まれ、のち新潟県の石黒家の養子となりました。
江戸医学所に学び、明治維新には大学で教鞭をとり、1871年(明治四)陸軍医官に転じ、以来累進して軍医総監・陸軍省医務局長に進み、日清戦争には野戦衛生長官でありました。
この間日本赤十字社長に推され、貴族院議員に勅選され、さらに枢密顧問官・議定官・宗秩寮議官となり、子爵を授けられました。
1935年(昭和一〇)老齢のため勇退し、自適生活を送りました。
1944年(同一九)没、九十七歳。
彼は1876年(明治九)頃遠州流の茶を知り、また茶の薬学的効果や料理の栄養学的研究を始めたことなどもあって、いつしか茶に深入りし、茶会記だけでも十六巻八百余回に及び、これを雑誌『太陽』などに発表していました。
ところが晩年の大正の終わり頃から、それ程に好きであった茶の湯から遠ざかり、まったくの茶会嫌いになっていっさいの招きを断わりました。
その理由を『況翁茶話』に次のように述べています。
「茶の湯も昔と今とは、だいぶんに変わった。
昔の茶は貧乏人は貧乏人で出来、金持ちは金持ちで出来ました。
今の茶の湯は貧乏人には出来ぬ茶の湯であります。
茶の湯の趣旨というものは、そんなものではないようです。
各々の分限々々ですべきで貧乏人の茶人も、金持ちの所へ招ぱれて楽しみますが、又金持ちの茶人も貧乏人の所へ行って楽しむ、否却って貧乏人が金持ちの所へ行くよりも、金持ちが貧乏人の所へ行く方が、余計楽しむものである云々」と。

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