セーブル磁器 セーブルじき

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鶴田 純久の章 お話

フランスの化学者レオミュールは、中国景徳鎮を中心とする磁器の観察報告を書いたイエズス会士ダントルコールから、カオリンやその他中国磁器の原土を入手しました。
彼はこれについて研究を進め、粉末ガラスを材料とすることで次第に磁器の秘密に近づいていきました。
1758年頃アカデミー会員の化学者ブランカは、アランソン産粘土で磁器用の原土をつくることに成功。この製法は1766年イギリスの特許を得ました。
これより以前1738年にシャンチレーの陶器工場で働いていた二人を技師とし、バンセンヌに磁器のための工場が設立されました。
シャンチレーでも日本の有田焼をモデルとして磁器製造が研究され、1725年には工場も設けられていました。
バンセンヌでの実験は1740年に一応の成功をみせ、1753年工場はセーブルに移転し、王や名高いポンパドール夫人らの保護下に王立工場となりました。
この間にも磁器素地の研究には多くの努力が傾けられ、1745年にはアカデミ一会員の化学者ジャンーエロが主任となって科学的研究を始め、そのあとはマケルが研究を続けました。
こうして1768年ようやく硬質磁器の原土が完成されました。
これはリモージュ近くに産するカオリンを利用したものであります。
実に三十年の時間を要しましたが、これでドイツのマイセン磁器の優位は破られました。
マイセンもセーブルも互いに厳重にその研究を秘密にしていたにもかかわらず、ベッカーとマケルはそれぞれ独自にカオリンを発見し磁器素地に到達しました。
ヨーロッパの窯業が科学的基礎の上に立ったものであることを明確に証明した例であります。
続いて各種の色調をもった素地も製出されました。
1753年には黄・濃紺・青緑、五六年には淡緑、五七年には名高い口しスピンク(またの名をポンパドールーローズ)がつくられています。
1750年のセーブル工場は百人の労働者をもっていました。
彫像・型つくり・流し込み・修整・絵付・金焼付などが分業になっていましたが、絵付には男女17人もいたと記録されています。
その後もセーブルは盛衰はありましたが、新しい芸術の変化と対応しつつ活動を続けました。
十九世紀には申国風のものも多くつくられ、青磁やファmmー・ローズ手のものもあります。
その彫像は特にすぐれ彫刻家ロダンも作品を残しました。
家具を飾るための磁板の製造はすでに十八世紀の半ばに始まっていて、ウェッジウッドと同じく人工宝石の製造も早いです。美術的であるばかりでなくセーブルは技術上の革新をも絶えず進めてきたのだりました。
なお付属の博物館は多くのすぐれた蔵品をもつことで知られます。

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