椎ノ峯焼 しいのみねやき

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鶴田 純久の章 お話

唐津焼の古窯。
肥前国松浦郡南波多村(佐賀県伊万里市南波多町府招)にありました。
1616年(元和二)唐津城主寺沢家の保護のもとに開窯しました。
原料の粘土に恵まれ、また伊万里湾に近く伊万里の商大が陶器を盛んに諸国へ輸出したため、一時は全盛を極めて製造戸数が三百五十戸を数えるに至り、唐津焼の大中心地となりました。
椎ノ峯の陶工中里茂右衛門は三川内(長崎県佐世保市三川内町)に赴いて杉林窯を開き、後年平戸松浦侯の御用窯となりました。
承応年間(1652-5)唐津藩主大久保加賀守は、梅村和兵衛に椎ノ峯の陶工を使わせて相知村平山上(東松浦郡相知町)に御用窯を開窯させました。
これまでは御用のやきものは椎ノ峯で焼造したが、これは一般に市販する陶器のかたわら製作していたもので、藩侯の用品だけをつくる御用窯は平山上御用窯が最初であります。
盛大を極めた椎ノ峯窯も1700年に伊万里の者と公事を起こし、翌年わずかな陶工を残して椎ノ峯を所払いとなりました。

これを椎ノ峯崩れと称し、この時からにわかに衰微しました。

なお1686年(貞享三)の今村三之丞の書留によりますと、高原五郎七は1619年(元和五)にこの地に来て留まること七年、1625年(寛永二)に同地を去って有田南川原に赴いたといいます。

椎ノ峯に最初集まった陶工はおおむね朝鮮の陶工であったようで、その窯跡には赤土の陶片などが多くまた白化粧したものもあります。

普通の窯は白濁釉でこの手は土も淡黄色であります。

そのほか黒釉もあります。

また斑釉には銅緑釉もあります。

模様には鉄黒色のほか白泥の刷毛目のものがあります。

(『陶磁工芸の研究』『肥前古窯址めぐり』金原京一)※からつやき

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