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鶴田 純久の章 お話

対馬国下県郡厳原在久田村字志賀(厳原町久田)にあったものです。
1726年(享保一一)に平山意春らによって御用窯として始まりました。
1791年(寛政三)新渡り茶碗窯と称して染付物を製出。
栗の画や南京式の山水の画かおり、また粗雑な茶碗などがあるところから、当時は民窯として経営されたものであるでしょう。
有田の工大が従業しました。
その後文化年間(1804-18)に吉田叉市(本名桟原吉蔵)が出て独特のものをつくりました。
この頃京都の道具屋上田理兵衛が画工に諸家の高麗茶碗の名物を写させて『高麗茶握手鑑』をつくり、本井戸・古伊羅保・魚屋・半使・三島・雲鶴・狂言袴・礼賓三島など二十種近くが写されていますが、これを手本として又市に模造させました。
象嵌その他は一種の風格を出し、朝鮮釜山のものとは大いに相違しています。
二代久右衛門・三代愛助・四代康大が業を継いですが、大正初年に康大が没すると窯は廃止されました。
別説にはこの窯の創始者を早田慶作としています。
(『日本陶甕史』『釜山窯卜対州窯』)

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