茶人。1544年(天文一三)生まれ。瓢庵と号した。堺の人、屋号薩摩屋。利休二十年来の弟子小壺の大事を相伝した。また名物虚堂の墨蹟を所有し、「乙御前、釜、此釜信長公ヨリ山上宗二拝領シ関白様へ進上」(『山上宗二記』)と見え早くから茶名があったが、『長闇堂記』に「かの山の上の宗二さつまやとも云し、堺にての上手にて物もし人におさる事のなき人也、いかにしてもつらくせ悪く口悪きものにて人のにくみしもの也、小田原御陣の時秀吉公にさへ御耳にあたる事申て、その罪に耳鼻そかせ給ひし」とあるよう剛直の人柄をもってしばしば浪人し、のち相模国(神奈川県)小田原に下り北条氏の客分となった。1590年(天正一八)四月十一日没、47歳。なお宗二の子道七は伊勢屋道和の養子と茶をもって家康に仕えたが、のちその怒りにふれて伊予国(愛媛県)に逃れ藤堂高虎の客分となった。
【山上宗二記】山上宗二の秘伝書。一巻。1589年(天正一七)二月北条氏の重臣板部岡融成、江雪斎に宛てたもの、1590年三月同じく北条方皆川山城守に宛てたもの、『茶器名物集』として『続群書類従』に収められた1588年桑山修理宛のものが知られ、この他にもなお二、三種があったようである。本書は利休直伝の記録とし茶の湯史上第一級の資料で、『珠光一紙目録』といわれる珠光の流に紹鷗利休伝を付加して成ったもので、当代の茶伝と名物がどんなものであったかを詳知することができる。内容は目利の次第と所蔵者について、大壺ノ次第、天目之事、茶碗之事、名物釜、名物ノ水指水翻、石菖鉢鑠色紙炭斗自在釣瓶香炉香合之事、十娃ノ香并追加六種、香炉灰、墨蹟之事、御掛絵花入之事、肩衝茄子之事、台子四荘之事、火筋之事、四方盆之一袋棚之事、佗花入などについて記し、また茶湯之伝として当代茶人の列伝と所持道具、紹鷗らの茶室や材木のことを述べ、さらに茶湯者覚悟十体、また十体というような茶の湯の理念を明記した部分が多く、貴重な文献というべきである。
『茶道古典全集』第六巻所収。